2016年11月22日火曜日

アインシュタインとガリレオ 無理解と偏見

 1935 年は、アインシュタインたちのいわゆる EPR 論文、
物理的実在の量子力学的記述は完全だと考えることができるか?
A. Einstein, B. Podolsky and N. Rosen,
“Can quantum‐mechanical description of physical reality be considered complete?”,
Physical Review 47, 777-80 (1935).
という、決定的な量子力学への批判論文が発表された年でもあります。

 そこに至るまでのアインシュタインの、ボーア理論に対する論難・批判は、量子力学にとって最適な〈試金石〉でもありました。
 その前後のいきさつは、次の資料にも記されています。

 第五回ソルヴェイ会議では、会場の内外で、アインシュタインは次々と巧妙な思考実験を示して、ボーアの解釈の内部矛盾をあばくような鋭い批判をあびせたが、ボーアはそのつど答え、反論していった。二人の討論に終始立ち合った共通の親友エーレンフェストは、その模様を、ライデンのホウトスミット、ユーレンベック、G・H・ディーケに宛てた一一月三日付の手紙で次のように書いている。
「…………。アインシュタインとボーアの話し合いにずっと立ち合えて嬉しかった。まるでチェス・ゲームのようだった。アインシュタインは絶えず新しい例をもってきた。ある意味では、不確定性関係をうちやぶるための第二種永久機関のようなものだった。ボーアは哲学的なもやもやした煙の中から、それらを次から次へとたたきつぶす道具を探し出してきた。アインシュタインはびっくり箱のようで、毎朝新しいものがとび出した。それは非常に貴重なものだ。しかし私はほとんど文句なくボーアを支持し、アインシュタインに反対する。彼のボーアに対する態度は、彼に向かって絶対的同時性を擁護する人々がとった態度に酷似している。……」
 アインシュタインはさらに、一九三〇年第六回ソルヴェイ会議においても、新たな思考実験を用意してきた。…………。アインシュタインはボーアの議論が論理的に可能であることを認めた。しかし、「私の科学的直観にあまりにも反するがゆえに、私はさらに完全な概念を探し求めることをやめるわけにはいかない」と書いた。ボーアはこの行きづまりを非常に悲しんだという。
西尾成子/著『現代物理学の父 ニールス・ボーア』中公新書 (pp.154-156)

 アインシュタインのこの最終的(?)な態度は、彼の〝哲学〟の枠組みを示しているでしょう。
 いかなる天才といえど、当面の立脚点なしでは、立っていることすらもできません。
 立花隆氏は、それを「図式」という言葉を用いて、
図式(シェーマ)は脳のソフトに埋めこまれた最も大事な認識装置といっていいんです
と語り、アインシュタインの例を挙げて、シェーマが固定化する弊害を説きます。
――若かりしアインシュタインは、マッハの無理解を残念に思っていたのです。

 ここでアインシュタインが述べている、どのようにすぐれた人でも、その人の持つ哲学的偏見によって正しい事実の解釈が妨げられてしまうということは、実によくあることなんです。
 …………
 人間の脳は基本的にある事実(感覚所与)を解釈しようとするとき、それを何らかのシェーマに従って解釈しようとするものです。……
 ……。柔軟性の最大の敵は偏見(先入見)です。なかでも哲学的偏見というやつは一番のやっかいもので、頭の中身を硬直化させる最大の元凶になります。
 そのような偏見は年齢とともに、どんな人の頭の中にもオリのようにたまっていきます。そのようなものがあまりないのが若者の有利なところで、どのような知の世界でも、その世界全体が閉塞状況に陥ったときに、そこにブレークスルーを切り開いていくのは、若者の柔軟な頭です。
 一九〇五年に特殊相対性理論をはじめとする三大論文を書いていたとき、アインシュタインはわずか二六歳、マッハは六七歳でした。マッハは相対性理論の基本アイデアを作った人だというのに、終生相対性理論が理解できませんでした。
 しかし、そのアインシュタインも、自分が年をとったとき、神がサイコロをもてあそぶとは信じられないといって、量子力学の不確定性を最期まで認めようとしなかったことはよく知られている通りです。
立花隆/著『脳を鍛える』第十回 (pp.293-295)

 ひとつの直観・理解が先入見となる、その他の関連する文献を参照しますと。

一六一八年に天に三つの彗星が観測されたとき、ガリレイには、それを自分では「眺める」ことをしない十分な理由があった。すなわち、それらの彗星に認めなければならないであろう軌道は、彼がそもそも天体を天体として承認したとすれば、あらゆる天体が描く軌道は円形だという、彼が頑強に堅持する教義に矛盾したからである。ガリレイの光学も彼自身の教義学に屈服したのであり、彼は、自分にとって不都合な現象を錯視として説明することによって、敵対者たちが木星の月に使ったのと同じ言い逃れを用いて切り抜けたのである。
ハンス・ブルーメンベルク/著『コペルニクス的宇宙の生成 Ⅲ』第六部「第三章」 (p.186)

 でもって、このふたりの天才の対比のほか、これ以上の語句は不要かと。

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