時空の変化の相を時間というのならば、
紛れもなくそれは、雪のように、
記憶の一片(ひとひら)として降り積もっていく。
映像を逆再生するように
時間を巻き戻すというのは
実は空間を巻き戻しているのだ。
さて前回は、フッサールが、いきなりどこぞへ吹っ飛び去る有り様となりましたが、改めまして、時間の流れと重力作用の関係についてです。
日本の古典、鴨長明 『方丈記』 からイメージされるのも当然にして低きへと去る、〝同じ水ではない流れ〟であります。
ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖 (すみか) と、またかくのごとし。
訳 流れゆく河のながれは、絶えることはなくて、しかも、もとの水では決してない。河のよどみに浮かぶ水の泡 (あわ) は、片方で消えたかと思うと、片方で生まれ、永くとどまるということはない。世の中にある人間も住まいも、またこれと同じようなものだ。
〔ちくま学芸文庫『方丈記』浅見和彦訳 (p.39) 〕
川の水が流れるように時も流れるので、そのまま当然のごとく時の流れにも重力の作用が考えられる、というような、無造作なことではないのでしょうが、それにしても、なぜ、フッサールでは 「過去が沈む」 のか?
古きギリシャの川の流れとして、ヘラクレイトスの有名な「万物流転 (パンタ・レイ) 」 は、後世に創作されたキャッチ・フレーズのごときらしいのですが、プラトンもそれをヘラクレイトスに代表される言葉として言及しています。
「クラテュロス」 402 A
ソクラテス たしかヘラクレイトスは「すべては去りつつあり、何ものも止 (とど) まらない」と言っているね。そして有るものを川の流れにたとえて「汝は同じ川に二度と足を踏み入れることはできないであろう」とも言っているようだ。
「テアイテトス」 160 D
ソクラテス してみると、君が「知識はすなわち感覚にほかならず」と言ったのは、なかなかもって見事なわけだったのだ。つまり、ホメロス、ヘラクレイトスなどの、ああした一族のものが全体となって唱えている「あたかも流れるもののごとく万物は動いているのだ」というのも、…………
〔『プラトン全集 2』「クラテュロス」 (pp.61-62) 「テアイテトス」 (p.235) 〕
よく読めば、「流転(るてん)」するのは「万物(ばんぶつ)」で、〝時の流れ〟ではなさげなのですが……。
それを称して、〝時の流れ〟と普通にいうのでしょう。そして、水の流れと同様に、高きから低きへと。
だからしてフッサールの語法なども、ただの、文学的な表現であって、他意はないのか。
だからといって果たして観念的かつ文学的な哲学の論拠は曖昧なままでよかろうかと?
西田幾多郎の〝縦と横〟は、よもやこのことに影響されているのであろうかと疑われます。
縦に一度的なるものが、何処までも絶対的一者の自己限定として、永遠の今に於て、横の一線となることが働くと云ふことである。絶対否定を媒介として、縦に一度的なるものと、横に永遠なるものとが一となること、多と一との矛盾的自己同一として結合することが、絶対的一者の自己限定として形作ることである。かかる絶対矛盾的自己同一的世界に於て、縦に直線的に消え行くことが働くと云ふことである。而してそれはすぐ横に直線的に、永遠に保たれることである。力とは、かかる世界に於ての世界線である。
〔新版『西田幾多郎全集』第九巻「自覚について」 (p.482) 〕
それにしても、不思議な話だ、と。縦と横の区別は重力以外の何を基準として構築されているのか。
すると突如として、困ったことには。無重力状態では如何なことになろうやと案じられ。
おそらくは、縦即横、横即縦で、縦も横も矛盾的自己同一的世界の自己表現であってみれば。
特別な解決の方法はどうもみつからないわけで。
相補性と自然哲学
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/Bohr.html
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