2016年11月24日木曜日

1938年 オットー・ハーン「ウラン核分裂の発見」

一九三三年ナチス政権が確立するや、一夜にして英語が研究所での主要外国語になった。
〔西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』第五章 (p.161)

 デンマークのコペンハーゲンにあるボーア研究所では、それまで、
原子物理学の分野ではドイツ語が国際語であったといいます。

 1932 年 12 月、アインシュタインはドイツを出国して、そのままアメリカに亡命しました。
 その後ナチス政権下でドイツがヨーロッパを席巻していくなか、ドイツ人オットー・ハーンは 1938 年、共同研究者である、リーゼ・マイトナーを亡命させた後に、シュトラスマンと二人で、ウラン原子が核分裂したことをつきとめ、さらにその年内には、マイトナーに研究の結果を知らせています。
 1939 年に、核分裂の最初の検証実験を行なったのは、マイトナーだったということです。
――資料から、引用しますと。

 マイトナーの亡命後は、助手のシュトラスマンと研究を続け、マイトナーがドイツを去った年の暮れに、中性子が衝突したウラニウムからバリウムが生成されることを明らかにした。これは核分裂の発見であり、核兵器の開発につながるものであった。ハーンはこの技術をナチスに応用させまいと努力したと言われている。1944 年、ノーベル化学賞がハーンに贈られることが決定したが、皮肉にもハーンは戦犯の嫌疑をかけられ、連合軍の手でイギリスに監禁されていた。ハーンが実際にノーベル賞を授与されたのは、46 年のことである。
〔東京書籍編集部『ノーベル賞受賞者人物事典 物理学賞・化学賞』 (p.310)

 そういえば自分の科学的業績が、戦争に応用されることを想像して、「これで戦争はなくなるだろう」と楽観的だったのは、ダイナマイトを発明して莫大な財を成したノーベルのことであったと、風の噂に聞いたことがあります。
 が、伝記(ケンネ・ファント 『アルフレッド・ノーベル伝』 )を読めば、444 ページに、
この世の中には、悪用されないものは一つもない」という、考えを持っていたことが綴られています。
 年月を経て、科学者たちは「戦争に人道は考慮されない」ことを痛感します。
 戦争はなくなるどころか、ますます苛烈を極め、むごたらしさを増していくのでしたから。
 そして 1939 年 9 月、科学者の社会的責任 がみずからに問われる、第二次世界大戦がはじまったのです。

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