2016年12月3日土曜日

問題解決の方策 補足及び修正

 かつて、こう書きました。…今回はその補足と修正です。

1923年 ド・ブロイ 「物質波」 (2016年10月3日月曜日)

 絶対矛盾の自己同一として、………… 神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である。我々の身体といふものも、既に表現作用的として、超越的なるものによつて媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (pp.290-291)

 ここで、「神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である」の「所以(ゆえん)」というのは、「理由・わけ」なので、「その前に提示した理由から、このようにいわれるのはもっともだ」という文脈とあいなります。
 で、その理由というのが、「人間は所謂創造物の頂点である」という一句と解釈されます。
 その一句にある「所謂(いわゆる)」というのは「世間で言われている」という意味なので、まとめますと「人間は世間でいわれているように創造物の頂点なので、神に似せて作られたといわれるのも、もっともな話である」という、意味内容となります。
 どうやら、モンテーニュ式の「人間が神を自分に似せて作った」という〈哲学的〉解釈は、世間の流行からは出なかったもようです。そしてモンテーニュはどうだか知らぬが、自分の意見は〈世俗的〉な多数意見から見てもそうであると、そういうことになりましょうか?
 このあたりが、少々乱暴な理論展開であるように、思われるのです。――自戒を含めて。

 ひとまずは、これにて。

 ……と、そう締めくくりましたが、西田幾多郎はその後、最後の完成論文で、

宗教と云へば、非科学的、非論理的と考へられる、少くもそれは神秘的直観と考へられる。神が自己に似せて人間を作つたのでなく、人間が自己に似せて神を作つたとも云ふ。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.295)

と、記述していますので、今回、そのことを補足させていただきましょう。
 そうして実はもうひとつ、ずっと気がかりなことがあったのですが、ちかごろ、ようよう解決の方策が見えてきました。
 それは〈時間の矢〉についての疑問です。
 便利な解釈が、ただのツジツマ合わせにならぬように、気をつけたつもりではあります。

物質的世界に於ては、時は可逆的と考へられる。生命の世界に至つては、時は非可逆的である。生命は一度的である、死者は甦らない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「場所的論理と宗教的世界観」 (p.298)

 この個所を最初に見て以来、前後の文脈も含めてこの文章の時は可逆的という記載に不自然さを感じていました。
 だから以前、後悔するのを覚悟で次のように書いたのです。

一即多(いっしょくた) (2016年8月26日金曜日)
 話は変わるが、アインシュタインが、1905 年の〝特殊相対性理論〟を発表した年に、別の論文で言及していることがある。
 〈ボルツマンの原理〉 という。ボルツマンの墓には、〈ボルツマンの方程式〉 が刻んである。
 熱力学の 〈エントロピー増大の法則〉 にかかわるものである。
 ちなみに、〈ボルツマンの方程式〉は、量子論の元祖でもあるプランクが、最初に作成している。
 この、〈エントロピー増大の法則〉は、熱力学の第二法則であり、宇宙はいずれ「熱死」する、という結論を導くものだ。
 だからそれは 〈涅槃原則〉 ともいわれる。
 ひらかなで「ねはんげんそく」、英語は “nirvana principle” である。
 すなわち――。
 時間が、一方通行なのは、「生命」の特権ではない。宇宙全体の〈原則〉なのである。
 ところが、この〈エントロピー増大の法則〉は、物理学を基盤とするはずの西田哲学には含まれないようだ。
 だから、〈時間の矢〉 により繰り返しがきかないのは、「生命」に限って語られることになる。
 西田幾多郎はまた、〝時空の相対性〟を「時間と空間はたがいに相対する」と解釈したりもする。
 西田哲学の基礎となる論理構成が正しいとする前提に立てば、理解が困難になるのは、もっともな話だと思われる。
 西田幾多郎が築いたものはすごいと思う。けれども人間なのだし、欠点もあるのだ。

 ……と、これまたそう決めつけたものの、西田幾多郎はそれ以前に「熱力学」を知っていたはずだし、真意はいずこにあるのだろうと、そのことについてもまた、ずっと不思議に思っていたものです。
 さすれば、こう読み解いてみましょう。
 この場合の「物質的世界」とは「幾何学的空間」のことであると。

然るに物理的世界と云ふのは、何処までも一の自己否定的多として空間的なるが故に、その自己自身を限定する形と云ふのは、数学的たらざるを得ない。物理現象的関係、力の関係は、何処までも数学的に把握せられねばならない。遂には非直観的と考へられるにも到るのである。併し物理学は何処までも幾何学となるのではない、力学は運動学でもない。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「物理の世界」 (p.32)

 空間とは如何なるものであるか。私が此処に問題とする空間とは幾何学的空間を意味するのではない、実在的空間をいふのである。空間といふのは、時と正反対に考へられるものである。空間に於ては物は同時存在的である。空間は物と物との可逆的関係である。物が同時存在的であり、物と物との関係が可逆的であるといふことは、時を否定することである。併し時を否定した実在的空間といふものがあるのではない、実在的空間は時間的なるものを包むものでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.86)

 この「幾何学的空間」とは、ニュートンの運動方程式に基づいて計算できる「力学的作用」の考察可能な世界です。
 ここで西田幾多郎は、「実在的空間」=「物理的空間」は、そういうただの「幾何学的空間」ではないとしています。
 たとえば実際の宇宙というか世界で、〈生命〉の生滅するさまを見れば、そこでは時間が一方通行なのは当然となり、ひるがえって、〈物質〉の生滅もまた、非可逆的だと知られるのでした。
 実際〔彼の論文をよく読めば〕、西田幾多郎は熱力学の〈エントロピー〉について、最後の完成論文 (昭和二十年 (1945) 「場所的論理と宗教的世界観」) の直前に書かれた論文で、「非可逆的」世界の肯定として言及していたのです。

そこには、時は何処までも空間面的である。併しそれでも世界は作られたものから作るものへと、絶対意志的に非可逆的である。そこに世界は自己自身の実在性を有つのである(世界はエントロピー的である)。
新版『西田幾多郎全集』第十巻「生命」 (p.258)

 ボルツマンという記述はそれ以前の昭和十三年 (1938) にあります。

(それでも物質的要素を無数と考へるならば、ボルツマンの如く自然の非可逆性といふことを考へ得るであらう)。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「歴史的世界に於ての個物の立場」 (p.320)

 結局、幾何学的と考察される空間はニュートン力学的に可逆だが、物理的である空間はそうではなく時間的でもあるので、非可逆である。
 そこで西田哲学の「空間的時間・時間的空間」という概念が、この解決のバトンを渡します。
この解釈は如何かと。


抜き書きと まとめのページ:周縁ないしは境界なき超越
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/rim.html

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