西田幾多郎はそれに対して〈非連続の連続〉ということを、時間に限らず、すべてに適用します。
論文「論理と生命」ではたとえば、連続とは、
「直線的に(連続的に)」という表現があります。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「論理と生命」 (p.24) 〕
これは、切れ目のない「数直線」とかのイメージからきているものでしょうか。
そうであるとすると、連続とは、無限からなる「つらなり」ということになりましょう。
なぜなら、0 と 1 あるいは、1 と 2 のあいだにすら、無限の数が数えられるからです。
(それがたとえば、0.5 と 0.6 のあいだでも、表現可能な数は無限です。)
また一方、「実践と対象認識 ――歴史的世界に於ての認識の立場――」においては、次の表現が見られます。
「時間即空間、空間即時間、個物的限定即一般的限定、一般的限定即個物的限定として弁証法的一般者の自己限定といふものである(即といふ語はいつも矛盾的自己同一といふことである)。」
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.174) 〕
上記の丸カッコ内の表現と同様の、
「(こゝに即といふのは矛盾的自己同一の意である)」は、その以前の、143 ページにおいてなされています。
その後の、「種の生成発展の問題」では、
「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「種の生成発展の問題」 (p.197) 〕
という説明がなされています。
あるいは、そういう〈限定された場所〉というのは、ちょいと量子論ふうな表現を用いるなら、〈離散的時空〉ともいえるでしょうか。
量子論というのは、ものごとを量子化して考えることをいいます。量子化、というのは、「エネルギー=質量」をパッケージ化して、なだらかな曲線ではなく、いわば、デジタル音楽のサンプリング波形の棒グラフのように、段階的なものとして、いってみれば断続的なものとして考えるようです。
(もしかすると、「ひとかたまり」という意味に通じる「パケット」という言葉のほうが、理解しやすいかも知れません。)
そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。
とともに西田幾多郎の〈限定〉というのは、「パッケージ化」を示す言葉とも、解釈できます。
いずれにせよ、西田幾多郎の哲学には、当時発展途上にあった量子力学の考察は欠かせないと思われます。
最後に、もうひとつ。前回の事がらに関連すると思われる次の一文がありました。
岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 329 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。
歴史的現在に於て、いつも矛盾的自己同一的構成を中心として、即ち歴史的・身体的構成を中心として、その自己否定的方向、空間的方向に、自然科学的知識が構成せられ、その自己肯定的方向、時間的方向に精神科学的知識が構成せられるのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「行為的直観」 (pp.236-237) 〕
行為的直観:行為する主体
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/vector.html
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