2016年10月15日土曜日

右往左往する〈瞬間〉の持続と飛躍

 前回にも触れた、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演記録の中に、つぎのようにあります。

時間は真に非連続である。しかもそれを結合するものが Sollen なのである。物理的時間ならぬ真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する。
 …………
我々はあらゆる瞬間に於て死して又生れるのである。そしてその時永遠の今に触れてゐるのである。しかしこゝに意味する瞬間は普通に云ふ瞬間ではない。それは幅のある鈍い瞬間ではなくして鋭いとがつた瞬間である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.120, p.135)

 Sollen は、「当為」と注釈されています。『広辞苑』によれば「当為」とは、
〝人間の理想として「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する〟
と、あります。

 おそらくは、西田幾多郎のこの引用文中の〈瞬間〉は、〈ゼロ〉への〝極限〟としての意味をもつものでしょう。
  〈瞬間〉 = 〈ゼロ〉
ではなく、
  〈瞬間〉 → 〈ゼロ〉
と表現すべき、そういう〝極限値〟が前提された概念は、昭和十五年 (1940) の論文においても、新たに述べられています。

すべての絶望はかゝる責任の下に立つのである、而してその持続する各瞬間を通じて。
 絶望といふ不調和が生じたとしても、それがその自らなる結果として持続するのではない。それが持続するならば、それは自己自身に関係する関係から来るのである。即ち不調和が現れる毎に、又それが現存する各瞬間に、それは直接に右の関係から生ずるのである。病の持続は病人が一度自己に招き寄せた結果に過ぎない。各瞬間毎に招き寄せて居るとは云へない。併し絶望はさうでない。絶望の現実的な各瞬間が、その可能性に還元さるべきである。絶望者は彼の絶望して居る各瞬間に、絶望を自己に招き寄せて居るのである。そこにはいつも現在的な時がある。絶望の現実的な各瞬間に、絶望者は可能として予感する凡てのものを、現在的なものとして担つて居るのである。何となれば、絶望すると云ふことは精神の領域に於て起ることであり、人間の中の永遠なるものに関係するが故である。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.104)

 ここで繰り返される「絶望の現実的な各瞬間」とは、〈幅がゼロの時間〉ではなく、
〝微分された (極限まで細かく分けられた) 時間〟としての〈ゼロへ向かう極限としての擬似ゼロ〉とでもいうべき、位置づけにあるようです。
 なぜならば、完全な〈ゼロ〉の「持続」であればそれはやはり〈ゼロ〉にしかならないからです。
 一般的にはどのように考えようとも、〈ゼロ〉が持続する、ということは、ずっと〈ゼロ〉である、としか解釈できないと思われるのです。
 数学者は〈極限値としてのゼロ〉を〈ゼロ〉と同一視するようなのですが、西田幾多郎はどうやらそのふたつを区別しているのでしょうか?
 また「その持続する各瞬間」には「そこにはいつも現在的な時がある」ともされています。
そして、
「真の時間は瞬間から瞬間へ飛躍する」とは、
〈鋭い尖った瞬間〉から〈鋭い尖った瞬間〉への量子力学的な意味での遷移(せんい)をイメージしたものなのでしょうか?
 その曖昧な〈瞬間〉が飛躍する、その〝時ならぬ時〟が、やがては把握できない〈現在〉として語られるのです。
 もはや、飛躍する〈瞬間〉ではなく、暗躍する〈瞬間〉とでも呼べそうな事態ではあります。

無限の過去未来が現在に於てあると考へられると共に、現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないものでなければならない。現在は何処にもないものでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第九巻「実践哲学序論」 (p.118)

 かつて語られた

人間のみが瞬間を有つのである。……。永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182)

現在を瞬間的と考へるならば直線的な時の形が考へられるが、瞬間を有たない時の形も考へることができる。我々は通常経験的には現在が幅を有つと考へて居る、瞬間は達すべからざるものと考へて居る。
新版『西田幾多郎全集』第七巻「行為的直観の立場」 (p.84)

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

というような「具体的現在」は、「把握することのできないもの」へと、すなわち移りゆく形而上的〈瞬間〉の飛躍の相へと昇華していくのでした。
 論文「行為的直観の立場」の上記引用文に続く一文ではこうもありました。
時の瞬間を極限点として考へるといふことは、要するに時を空間化することであると。

 すなわち、通常は数直線上の一点として認識される、ベルクソンが表現したところの〝数学的点〟としての〈瞬間〉から、その擬似的な〝極限〟としての〈瞬間〉が考察された際、それが〝時としての幅をもつ現在〟として考えられたにもかかわらず、今回「現在は瞬間から瞬間へと動き、現在は把握することのできないもの」と位置づけられるようになってしまったのです。
 昭和九年 (1934) の京都大学英文学会の講演では次のような表現もありました。

必ずしも瞬間的なものを考へなくとも、時間的なものは一般に生れては消えるのであります。その一々が独立の意味を有してゐる、それだけで生れてそれだけで死ぬ。単に縦の線に於てのみ現はれる一回的のものである。時間とはかかる独立なものが続いて行く事である。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250)

 少なくとも、〝一瞬にして消滅を繰り返す〟という、それぞれ独立した〈瞬間〉は〝持続〟するのか〝飛躍〟するのか、それとも両方なのか、曖昧でなく、かつ矛盾しない理解を得たいものです。
 現実としての〈この世の具体的な瞬間〉をどう理解するべきか、というシンプルな問いなのです。


〈時〉の科学 〈場〉の心理学
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