2016年10月17日月曜日

時が「動く」ための絶対基準

 それから現実の世界と云ふものはいつでも何か絶対の現在と云ふやうなものに接して居る。さう云ふ風に考へなければならないと思ふのですな。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「現実の世界の論理的構造(第五講)」 (p.233)

その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。かゝる永遠の今のいづれの点に於ても時は消えて又新に生れる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考へられる。その一点がすべての運動をつゝむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味を有ち、空間的な意味を有つ。
新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124)

 すなわちここに、絶対基準が、必然である。
 永遠の場所である〈永遠の今〉において、すべての〈時〉が可能になる、らしい、のだ――。
 無条件に、その〝前提〟を〝根柢〟とする。

 ところで。もし、〈瞬間〉が一瞬前も消えてなくなっているというなら、
どのように〈無数の瞬間〉が同時存在し、
数直線状の〈時間〉を切断した切断面を〈空間〉という如き説明が可能であるか?

 そもそも、これでは直線を切った、一次元の切断面が、
零(ゼロ)次元とはならず、三次元であるというようなイメージを喚起させる
解釈ではあるが、その曖昧さはとりもなおさず基準座標としての、
〈絶対時間〉というような〝観念〟の導入を前提条件としたであろう。

 さらに〈瞬間〉が同時存在する必然として、因果律を楯に説明は可能だ。
 瞬時に消滅する〈時〉において、過去が現在にそして現在が未来にそれぞれ関係性をもって〝働きかける〟ためには、過去と現在、そして、現在と未来が、同時存在的でなければ働きかけることができないのは、存在しないものに〝働きかける〟ことができないことからも自明であろうとされる――。
 これは、プラトンの「パルメニデス」 156D~E あたりをヒントにしたものとみなされているようだ。
 西田幾多郎は論文で、プラトンによる〝イデアの影〟説を援用していう。

私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。
岩波文庫『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ「絶対矛盾的自己同一」 (p.77)
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html#idea
 ――リンク先は新版『全集』第八巻からの引用文――

 もし〈時〉が〈時〉に対して動くというなら、
対する〈時〉と、
それに対される〈時〉とは、
どう異なるか。異ならないのか。

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