〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「現実の世界の論理的構造(第五講)」 (p.233) 〕
その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。かゝる永遠の今のいづれの点に於ても時は消えて又新に生れる。かくて時は常に新しくどこからでも始まる。その無数の時が表から見られた時、それは一つの点に収まるとも考へられる。その一点がすべての運動をつゝむのである。その永遠の場所に於て種々なる時が可能になる。それ故に種々なる時は場所の意味を有ち、空間的な意味を有つ。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124) 〕
すなわちここに、絶対基準が、必然である。
永遠の場所である〈永遠の今〉において、すべての〈時〉が可能になる、らしい、のだ――。
無条件に、その〝前提〟を〝根柢〟とする。
ところで。もし、〈瞬間〉が一瞬前も消えてなくなっているというなら、
どのように〈無数の瞬間〉が同時存在し、
数直線状の〈時間〉を切断した切断面を〈空間〉という如き説明が可能であるか?
そもそも、これでは直線を切った、一次元の切断面が、
零(ゼロ)次元とはならず、三次元であるというようなイメージを喚起させる
解釈ではあるが、その曖昧さはとりもなおさず基準座標としての、
〈絶対時間〉というような〝観念〟の導入を前提条件としたであろう。
さらに〈瞬間〉が同時存在する必然として、因果律を楯に説明は可能だ。
瞬時に消滅する〈時〉において、過去が現在にそして現在が未来にそれぞれ関係性をもって〝働きかける〟ためには、過去と現在、そして、現在と未来が、同時存在的でなければ働きかけることができないのは、存在しないものに〝働きかける〟ことができないことからも自明であろうとされる――。
これは、プラトンの「パルメニデス」 156D~E あたりをヒントにしたものとみなされているようだ。
西田幾多郎は論文で、プラトンによる〝イデアの影〟説を援用していう。
私が前論文において、世界が絶対矛盾的自己同一の影を映す所に、イデヤ的といった所以である。
〔岩波文庫『自覚について』西田幾多郎哲学論集Ⅲ「絶対矛盾的自己同一」 (p.77) 〕
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html#idea
――リンク先は新版『全集』第八巻からの引用文――
もし〈時〉が〈時〉に対して動くというなら、
対する〈時〉と、
それに対される〈時〉とは、
どう異なるか。異ならないのか。
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