2016年9月28日水曜日

クロノスとカイロス

 それは多少の韻を踏んで翻訳すれば、継時(クロノス)と契機(カイロス)ともいえましょう。
 クロノスもカイロスも、もとはギリシャ神話の有名なゼウス一家の神の名前です。

 クロノスは、「年代記=クロニクル (chronicle) 」のもとになった言葉でもあります。
 が、カイロスのほうは、日本ではあまり有名ではありません。
 しかしながらも、欧米文化の次のことわざなら、ご存知の向きもあろうかと、思います。
「チャンスの神には、前髪はあるけれど、後ろ髪はない」すなわち、機を失するな、というたとえです。
 そういうわけで、正統派の美術的カイロス神の髪は、前髪しか描かれないという由縁となります。

 ギリシャ語聖書においては、クロノスもカイロスも、キリスト教の教えに、深くかかわっているようです。
 クロノスはまた「通時」といわれ、カイロスは「好機」ともいわれます。
 クロノスは平たんな〈水平的時間〉のイメージであり、一方、カイロスは決断の時あるいは決定的瞬間としての〈垂直的時間〉という捉え方がされているようです。
――ですが、その、垂直的な時間とは?
 それは、地震計のグラフが突然大きく振れるようなイメージなのでしょうか。
 それとも、天より降りきたる〈その時〉が、幻想されているのでしょうか。

 さて、ここで前回のリンクページのトップにあった、ガストン・バシュラール「詩的瞬間と形而上学的瞬間」の引用文が、重要な位置を占めることになります。

 こういうわけでわれわれは、すべての真実な詩の中に、停止した時間、尺度にはしたがわない時間、つまり、川の水や過ぎゆく風とともに水平的に逃げ去ってしまう普通一般の時間と区別するため、特に「垂直的」と呼んでみたい時間の要素を見出すことができるのである。以上のことから、ここに、次のようなパラドックスをはっきりと述べておかねばなるまい。すなわち、韻文 [プロソディー] の時間は水平的であるのに、詩情 [ポエジー] の時間は垂直的であると。
G・バシュラール「詩的瞬間と形而上学的瞬間」『瞬間の直観』 (p.126)

 というのは、中村雄二郎氏の 『共通感覚論』 「第 4 章」の「4 時間と共通感覚」のなかに次の記述があったのです。

 さて、社会的時間も文化的な時間も、自然的な時間に対しては広い意味での制度によって仲立ちされた二次的な時間なのである。けれども、その二次化の方向が両者の間では異なっている。すなわち、ここで社会的時間というのは、社会生活上の有効性によって区切られ秩序立てられた時間のことである。それは一般に、意識的で機能的な制度によって仲立ちされているために、ニュートン物理学の抽象的な時間、過去から未来へと均質に流れる時間、つまり水平の時間に (55) 近づくことになる。それに対して文化的な時間とは、人々の間の交感や同化によって循環とリズムが強化されるとともに、非実用的な価値と形式によって秩序立てられた時間なのである。この方は、生きられる重層的な時間のなかにあって、無意識的で祭祀的な制度によって媒介されているために、直線的時間、水平の時間とは反対の方の極に、もう一つの極限の時間に近づく。それは、円環的あるいは永遠の時間ともいうべき神話的な時間、いわば垂直の時間である。(かつて古代ギリシア人がクロノスとカイロスと名づけた二つの時間は、この水平の時間と垂直の時間にほかならない。)すなわち、ここで社会的な時間と名づけられたものは、社会生活上の機能的で実用的な時間、表層の時間であり、それに対して文化的な時間と呼んだものは、祝祭的な時間、深層の時間であるとも言いかえることができる。
(55)  この〈水平の [ホリゾンタル] 時間〉およびそれとの対比で言われる〈垂直の [ヴァーティカル] 時間〉という表現は、バシュラールによる( Gaston BACHELARD, L’Intuition de l’instant, Paris, 1932, p. 104. バシュラール『瞬間と持続』、掛下栄一郎訳、紀伊國屋書店、一九六九年、一二六ページ)。ただしここでバシュラールがいっているのは、〈散文の時間〉と〈詩の時間〉との対比に限られている。なお、彼は、〈通過する時間〉と〈内在する時間〉(シュトラウス、ゲープザッテル)、〈世界の時間〉と〈自己の時間〉(ヘーニヒスヴァルト)という対比のうちにそれぞれの後者、つまり〈内在する時間〉〈自己の時間〉のことも〈垂直的時間〉temps perpendiculaire と言っている( G. BACHELARD, La Dialectique de la durée, Paris, 1950, p. 95, p. 98. バシュラール『持続の弁証法』、掛下栄一郎訳、国文社、一九七六年、一二九、一三三ページ)。
岩波現代文庫『共通感覚論』 (pp.271-272; pp.356-357)

――――
 前回の最後に引用した、
「〈深層の知〉と私が言うのは、純粋経験の立場から出発した西田が場所の論理に至り、さらにそれを推しすすめることによって可能になった深層のリアリティの把握のことである。」

という内容の一文は、今回は、
「すなわち、ここで社会的な時間と名づけられたものは、社会生活上の機能的で実用的な時間、表層の時間であり、それに対して文化的な時間と呼んだものは、祝祭的な時間、深層の時間であるとも言いかえることができる。」

ということから、

 すなわち、深層の知の中心的対象となる深層の現実と、制度論的思考の主要な対象になる、客体化され物質化された現実、その意味での表層の現実とが、しばしば入れかわるのは、なぜだろうか。もう少し具体的にいって、本来は心の深層にかかわる宗教上、芸術上の営みが、なまなましい政治的、経済的な意味を持ち、また逆に、本来は表層のなまなましい政治的、経済的な振舞いが、疑似的にもせよ強い宗教的、芸術的意味を帯びて人びとの心をとらえることがあるのはなぜか、という問題である。
中村雄二郎『述語的世界と制度』 (p.59)

という捉え方へと、推移していく様子がうかがえました。

 そういうわけで、中村雄二郎氏の〈水平的・時間〉と〈垂直的・超時間〉という謎は、「日常的」と「非日常的」の対比とも、解釈できるものなのでした。
 あるいはその側面として、〈均質な時間〉と〈凝縮された時間〉の、イメージではあります。
 それには、文学的表現の影響が強くありました。
 また西田幾多郎自身による垂直的表現には、「私と汝」( 1932 年)で多用される 自己自身の底 などがあります。


統一的自己
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/union.html

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