〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「経験科学」 (p.463) 〕
西田幾多郎のこの論文「経験科学」は昭和十四年 (1939) に書かれたものです。
上記引用文中の、前半部分は、どうやらイメージできるのですが、後半の、
「時を内に消すもの」と「時を包むもの」とが、具体的にどう違うのかが、さっぱりわかりません。
同じ「時を包む」表現として、昭和七年 (1932) に行なわれた京都大学での講演において、次の記録が残されています。
現在が現在を限定する時に、限定するものなくして現在が限定されるのである。無にして現在が限定されるのである。そこに無数の時が可能になる。その無数の時をつゝむものが即ち永遠の今なのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「生と実在と論理」 (p.124) 〕
また、ヒントになる(かも知れない)似たような発言として、大正八年 (1919) の大谷大学での講演記録がありました。
全体から見れば部分は有限なものであるが、その有限の中に無限が包まれて居ると云ふやうなことである。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「 Coincidentia oppositorum と愛」 (p.83) 〕
そもそもは前提として〈時間〉は〈無限〉なのであって、たとえ〈空間〉が有限であったとしても、この理由でそれは可能となることになります。
ですがいずれにせよ、当時の西田幾多郎の「歴史的空間」が、(無限大の)球体を基本として描かれるものだということは、これまでの記述からも明確です。
パスカルの〝無限の球体〟を参照した論文「永遠の今の自己限定」は昭和六年 (1931) に発表されていますが、昭和九年 (1934) の、京都大学英文学会の講演では次のような表現もあります。
即ち時間は普通には過去無限から未来無限にわたる直線と考へられ、空間はそれを横に切る横断面と考へられる。…………
空間は時間の横断面であるのですが、……。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「伝統主義に就て」 (p.250, p.251) 〕
これは〝時空の層〟が年代とともに〝地層のごとく〟積み重なっていくイメージでしょうか?
このような〝時空連続体〟構想は、SFではお馴染み(おなじみ)な設定でもあって、いまどきでは珍しいものでもないでしょうが、〈時空〉という言葉が発明された、その当時(ちょうど 100 年前の 20 世紀初頭の昭和初期)であれば、常識の疑われるものであったかもしれません。
実際、「相対性理論」は発想力の常識を疑われていたようですし、「量子力学」にいたっては研究している学者自身がいまだに自分の常識を疑ってかかっているふしがあります。つまり、
「宇宙のリアルな法則は人間にとって常識的ではないところがある」と。
それで、四次元時空の連続体が、球体として、もし構想されるとしたなら、
――それぞれの刹那の四次元時空を球体の表面部分として前提した場合――
〝ビッグバン以来の空間の拡大がそのまま、球体の表面として積み重なっていって連続体となったのが、宇宙である〟
という理屈も可能でしょう。
まるで「木の年輪」みたいな宇宙像ですが……。
あるいは「宇宙大のタマネギ」とか。
さて、前回のかけ算の逆、わり算のことを、追加で説明しておきましょう。
〈瞬間〉 × 〈無限大〉 = 〈現在〉
という、この両辺を〈無限大〉で割ると、次のようになります。
〈瞬間〉 = 〈現在〉 ÷ 〈無限大〉
これは、
〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定な数〉
でしたので、
〈ゼロ〉 = 〈数値〉 ÷ 〈∞〉
という内容と、同じことになります。
これらの数式に登場する記号としての〈ゼロ〉や〈∞〉は、数学的極限値としての記号であり、
――また〈∞〉は何らかの〝具体的数値〟でもありませんが――
それら数式の、計算結果の〝極限を示す〟〈値(あたい)〉としての、意味をもつものなのでした。
それは、
〝〈ゼロ〉に収束する〟
〝〈無限大〉に発散する〟
という言葉で表現されるものです。
極限値が〈 1 〉であれば、
〝〈 1 〉に収束する〟
となります。
〝〈ゼロ〉に収束する〟ということについて。
数学的には、それは、たとえば何らかの数を無限大で割ると、実質ゼロになる、ということを意味していて、
「具体的数値としてはゼロ」
になる、ということであり、それが〝数学的リアル〟なのでした。
つまり、物質(あるいは宇宙)を際限なく砕いていくと、何もなくなってこれはやはり〝すべては〈ゼロ〉になる〟ということです。
何も、宇宙には塵すらも残らない、のです。それが〝数学的リアル〟です。
〝数学的リアル〟と〝この世のリアル〟の違いについて。
また一方で、〝数学的リアル〟な三角形は、〝この世的リアル〟な宇宙には、いまのところどこにも存在しません。
西田幾多郎も、それについて大正八年 (1919) の現龍谷大学での講演で、以下のように述べています。
数学者は円とは一つの中心点から等距離にある点の軌跡であるといふが、かゝる厳密なる円はどこにも存在してゐない。
〔新版『西田幾多郎全集』第十三巻「宗教の立場」 (p.89) 〕
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