するとこの場合には〝時は我なり〟という構図が見えてくる。
ひとは、そうやって自分の時間を生きているけれど。
――誰かと。
〝同じ時間を生きた〟ことと、〝同じ時代を生きた〟ことには、空間的な違いが感じられる。
〝同じ時間〟には、空間的に近接した「景色までも含めて共有する」印象がある。
〝同じ時代〟で、共有されているのは、きっとどこまでも続く「同じ空」なのだ。
「同じ空の下にぼくたちは生きてきた」という、空に媒介された距離感を含む風景がそこにある。
ならば「時間を忘却した時代をぼくたちは生きてきた」というのはどうだろうか。
それは〝時に追われて生きる時〟を意味するかも知れない。
おそらくは「ぼくたちは自分の時間よりも時間そのものを大切にしている」。
動く時計の針によって刻まれる時間をまるで先取りできるかのように。
生きている自分を意識する時間の至福と不幸がある。
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