2016年10月8日土曜日

両立せぬ「真・偽」関係の論理学的〈矛盾概念〉

 つまり、論理上
一方が〈真〉であればもう一方は必ず〈偽〉であり、逆に一方が〈偽〉ならばもう一方は必ず〈真〉となる関係
を 〈矛盾関係〉 といい、そういう関係性のあいだに中間的なものの存在しない一対 [いっつい] 〈矛盾概念〉 という、らしいのです。

 それは、現実的に事実として〈矛盾〉しているという〝概念(がいねん)〟のことではなく、論理として、そこで対比されている両者の「論理的な帰結」が、ともに〈真〉となることはなく、さらには、ともに〈偽〉ともならない、排他的でかつ一種相互依存的な、そういう対立的な関係性のことなのだと、思われます。

 ところで普通 (かどうかは意見も異なりましょうが)、〈偽〉といえば 〈False〉 で、それはラテン語の「だます」を語源とするらしいのですが、パソコンのプログラムの世界では、一般的に〝 0 〟の意味を持ちます。
 もう片方の〈真〉は、〈True〉 でそれはコード的には〝 0 以外〟なので、二進法を身上とするパソコンとしては、〝 0 〟以外の数字を〝 1 〟しか持ち合わせてないゆえに、〈True〉 は〝 1 〟と解釈されても仕方のない状況となります。
 通常の初期値は〝 0 〟なので、〈False〉 からすべては始まる前提なのですね。
 この状況下で初期化すると、〝すべては 0 になる〟のです。

 いうなればそれらは「有る」と「無い」の表現でもあります。ここからも、〈真偽(しんぎ)〉は〈有無(うむ)〉の関係性ともいえましょうか。

 ここでにわかに西田哲学の話になるのですが、そういう〈有・無〉の対立が解消されて、すなわち止揚(しよう)していくための、便利な道具が、〈弁証法〉ということになります。
 また「世界は弁証法的でなければならない」というような表現がその過程でよく見受けられるのですが、世界がそのようであるのならば、たちどころにすべての論理的〈矛盾〉など、解決してしまいそうに思われるのに、どうやらそうなっていないのは、ここに至るまでの以上の解釈の過程に、エラーがあったのでしょう。
 それとも。〈弁証法〉で論理的な〈矛盾〉は解決されても、現実の問題は、〈弁証法〉とは関係なく別にあるものなのでしょうか?

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