2016年10月3日月曜日

1923年 ド・ブロイ 「物質波」

 西田幾多郎の 1938 年の論文「人間的存在」に、次の表現があります。
 岩波文庫『論理と生命』西田幾多郎哲学論集Ⅱ の 370 ページにありますが、以下に『全集』から引用させていただきます。

歴史的・社会的世界に於ては、物は表現作用的に、制作的に、自己自身を表現するものでなければならない。かゝるものとして、その存在性を有つのである(私は歴史的物質といふものを、かゝる意味に於て自己矛盾的存在と考へるものであるから、今日の物理学に於て物質と波との矛盾的結合といふのも、かゝる理由に基くのではないかと思ふ)。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.282)

 ド・ブロイが「物質波」の構想を発表したのが、1923 年とされており、その 15 年後になります。
 その 「物質波」 というのは 「物質だとか波動だとかいうのは真実の一面でしかない」 というような内容 のものです。
 そういえば、前回のリンクページには、次のような一文を引用させていただいておりました。

現実は相反する方向の自己同一即ち矛盾の自己同一として(ボールの相互補足性 Komplementarität (8) の如く)、自己自身を形作るものであるのである。
(8) ボーア『ニールス・ボーア論文集1』岩波文庫、第七論文「因果性と相補性」、一二九-一三一頁ほか。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「実践と対象認識」 (p.124)

 これら、物質と波との矛盾的結合ボールの相互補足性とは、同じ内容のことがらを示しておりまして、つまりは「ボーア (Bohr) が量子力学に導入した相補性の概念」のことです。
 この「相補性の概念」のことは、ハイゼンベルクの「不確定性」とともに、改めて詳しくみていく機会もありましょう。

 それはそうと論文「人間的存在」については、「進化の頂点に立つ、西田哲学の神話」と題して以前(2016年5月19日木曜日)にブログで触れたこともありました。
 今回は、『全集』からの引用文で、そこのところをちょいと振り返ってみましょう。

 絶対矛盾の自己同一として、作られたものから作るものへと自己自身を形成する世界は、作られて作るものの極限に於て人間に到達する、人間は所謂創造物の頂点である。そこでは与へられたものは何処までも作られたものであり、否定せらるべく与へられたものである。作るものより作られたものへと考へられる。神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以である。我々の身体といふものも、既に表現作用的として、超越的なるものによつて媒介せられたものであるが、作られて作るものの極限に於て、我々は絶対に超越的なるものに面すると云ふことができる。そこに我々の自覚があり、自由がある。我々は歴史的因果から脱却し得たかの如く考へるのである。
〔新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (pp.290-291)

 ここで、神がおのが像に似せて人間を作つたとも云はれる所以であるの「所以(ゆえん)」というのは、「理由・わけ」なので、「その前に提示した理由から、このようにいわれるのはもっともだ」という文脈とあいなります。
 で、その理由というのが、人間は所謂創造物の頂点であるという一句と解釈されます。
 その一句にある「所謂(いわゆる)」というのは「世間で言われている」という意味なので、まとめますと「人間は世間でいわれているように創造物の頂点なので、神に似せて作られたといわれるのも、もっともな話である」という、意味内容となります。
 どうやら、モンテーニュ式の「人間が神を自分に似せて作った」という〈哲学的〉解釈は、世間の流行からは出なかったもようです。そしてモンテーニュはどうだか知らぬが、自分の意見は〈世俗的〉な多数意見から見てもそうであると、そういうことになりましょうか?
 このあたりが、少々乱暴な理論展開であるように、思われるのです。――自戒を含めて。

 ひとまずは、これにて。

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