2016年10月10日月曜日

〈瞬間〉×〈無数〉=〈現在〉 という魔法

 昭和十四年 (1939) の論文「絶対矛盾的自己同一」で西田幾多郎は、次のように記述しています。

具体的現在といふのは、無数なる瞬間の同時存在と云ふことであり、多の一と云ふことでなければならない。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「絶対矛盾的自己同一」 (pp.368-369)

 ここで表現されている無数というのは、文学的な用法としての〝有限だけれども数えきれないほどの数〟ではなく、はっきりと「無限大」を指し示しています。
 それはなぜなら、というと。
 以前から、西田幾多郎の「現在」は「幅を持つ」のであり、今回それと対比されている瞬間とは「幅がゼロの時間」を示していることは述べてきましたが、

〈ゼロ〉 × 〈有限な数〉 = 〈ゼロ〉

なので、もともと〈ゼロ〉の時間がなんらかの「幅を持つ」ためには、〈無限大〉を積算(かけ算)するしかないという、いかんともしがたい理由によります。
 そういうことで、上の引用文は数式的には次の内容をもつことになります。

〈瞬間 (ゼロ) 〉 × 〈無数 (無限大) 〉 = 〈 〔限定された〕 現在〉

さて。この方程式(計算式)は、はたして成立するのでしょうか?

 これまで、多くの先達の資料を参照してきましたが、いまのところ「西田哲学における時間の幅の意味」についてこのように論及したものは見受けられず、見当のつかない状況です。
 この際の「時間の幅」というのは「断絶した連続で成り立つ〈永遠の今〉としての自己限定された現在の幅」をいいます。
 以前(2016年10月1日土曜日)に「歴史的世界は最始から絶対矛盾的自己同一として自己自身を限定するのである。絶対の断絶の連続である、段階的である。」という西田幾多郎の記述から、
〝そうするとなると、〈非連続の連続〉 というのは、現代ふうに表現すれば、〈離散的な連続〉 ともいえましょうか。〟
と書きましたが、西田幾多郎昭和十三年 (1938) の論文「人間的存在」には、

時は断絶の連続と考へられる所以である。
新版『西田幾多郎全集』第八巻「人間的存在」 (p.275)

ともあって、「断絶した連続」は〈非連続の連続〉と同じ意味を含みます。
 すなわち〈永遠の今〉とは、「限定された現在」でありつつも、それが「段階的」に連続していく、いわば〝時空連続体〟的な様相の統合(とうごう)された綜合(そうごう)というような〝リアル〟がイメージされた、〈実体概念〉なのでしょうか?
 その〝リアル〟を構成するのが、擬似〝リアル〟であるところの、形而上的〝バーチャル〟な「瞬間」であるとされています。
 繰り返しますが、ここで「瞬間」というのは「幅がゼロの時間」であり、「無時間」を示します。
 そもそも、最初の引用文の直前の一文で西田幾多郎自身も、瞬間は時の外にあると、しています。
 これは、「瞬間」は現実的な時間で構成されているべき、「〝この世〟の外にある」と、解釈できます。
 そういう〝あの世〟的時間が〈無数〉に集まって〝この世〟の〈現在〉を構成しているという、そういうことなのでしょうか?
 少なくとも事実としては、西田哲学の〈無〉と〈無限〉がここに、同時存在的に語られています。
 さらには、実はこれまで「多の一」という表現は「多」を「有限な数」とみなしてきたのですが、ここで「多」に「無限な数」をも含めて適用する必要が出てきました。
 〈一(いち)〉と〈無限大(∞)〉を対比させるというのは、突然の新しい考え方のような気がします。

 ところで数学者の解説によると、〈無限大(∞)〉が演算に登場した時点で、それは通常の計算式ではなく、数列の計算が求められるのだと、そういうことらしいのですが、そこに記述される「=」は、「→」と同じで、「収束」もしくは「発散」する行き先(到達目標)を示すもののようです。それで、数学的には

〈ゼロ〉 × 〈∞〉 = 〈不定〉

となり、これは、一定の数値にはならないようです。
 高等数学では、〈limit〉 が用いられる世界で、「ロピタルの定理」という〝不定形の極限値を求める〟計算式の一角を占めているようです。

 この、〈ゼロ〉に〈無限大〉をかける方法というのは、また一方で、「時間」とよく対比される「空間」にも適用できるでしょう。
 この世の「空間」は〝三次元的に存在しない幅(大きさ)がゼロの点〟が「無数」に集まって構成されている、という解釈が、同じように可能となるということです。
 数学者は〔量子論的解釈とは関係なく〕、計算上はそれは可能である、とするようです。
 (つまり、素粒子は、際限なく、分割可能となります。)
 それは、「自然数全体の集合」は〈現実的無限〉という、観点から考えられているようです。
 しかしながら「自然数」は、はたして物理的な「現実」といえるのでしょうか。
 厳密にはおそらく、数学は〝リアル〟ではなく、〝リアルの近似値〟を数式で表現するものです。
 つまり形而上的〝バーチャル〟を〝リアル〟にフィードバックするための最強の道具である、ともいえます。
 また現在わかっているのは――、
量子力学は未だ発展途上にあり、最終結論などではない、ということです。


〈場所〉の論理から〈絶対矛盾的自己同一〉へ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/sublation.html

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