スペンサーからの用語 “survival of the fittest” も
「優勝劣敗」ではあっても、意図的に「弱肉強食」ではなかろう。
スペンサーとしても、存在の「複雑化」が主題なのだから、
“evolution” は「前進・進歩」でり「高度化」だったはずだ。
日本語で「優勝劣敗」、「(最)適者生存」、「弱肉強食」と訳される survival of the fittest は、ダーウィンのいう「自然選択(淘汰)」(natural selection) に代わるスペンサーの造語である。ダーウィンはスペンサーの用語を好まなかったが、『種の起源』の第五版(一八六九年)で「自然選択もしくは適者生存」と書き、同書の第六版と『人間の進化と性淘汰』(一八七一年)には「進化」を著作名に使っている。
〔スチュアート ヘンリ「文化(社会)進化論」『文化人類学20の理論』所収 (p.9) 〕
このあたりのいきさつは、日本語文献でも繰り返し触れられている。
『現代思想』 2009 年 4 月臨時増刊号 vol.37-5 総特集=ダーウィン
から、引用させていただくなら。
松永俊男「日本におけるダーウィン理解の誤り」
(pp.51-52)
ダーウィンは『種の起源』の初版(一八五九年)以来、第五版(一八六九年)まで、「エヴォリューション」という言葉を一度も用いていない。第六版(一八七二年)の最後の部分ではじめて、この語を導入した。「エヴォリューション」はハーバート・スペンサーの進歩の哲学のキーワードであり、スペンサー哲学の流行にともなって生物進化の意味でも広く用いられるようになったのである。
池田清彦「ダーウィンが言ったこと、言わなかったこと」
(p.62)
ダーウィンが生まれた年は奇しくもラマルクの『動物哲学』が出た年です。ダーウィンはラマルクのことをあまり評価していなかった。それはなぜかというと、私は「進化時空間斉一説」と言っているのですが、ラマルクは定向進化を考えていたからです。生物は自然発生して単純なものから複雑なものに、下等なものから高等なものに、ただひたすら一様に進化していくという話です。ダーウィンは当然ながらこれには反対しました。ダーウィンの考え方はそれとはまったく違っていて、生物の形質の変化はその場限りの出来事として環境と変異の兼ね合いでアドホックに決まり、予測もできないし、一様に高等になっていくものではない、というものです。そういう考え方は、当時では斬新なものでした。
(p.63)
………… したがって、ある交配集団があるとして、変異が遺伝するならば、環境に適した変異は集団の中に徐々に広まっていくはずだ、と考えるわけです。
しかし環境というのはどんどん変わり、安定的ではない。ずっと安定しているならば生物の形質もそれに適して安定しているはずですが、環境は変わってしまう。そうすると、今までより適しているものが出現する可能性が高くなるので、結果として、環境の変化の後を追いかけて生物は適応をしていく。ですから、今いる生物は少し前の環境に適応していて、今の環境には追いついていない。それが進化の原動力になる。これが自然選択ということです。連続的な変異と獲得形質の遺伝と環境が生物の形を変える。それがダーウィンの考え方です。
北垣徹「社会ダーウィニズムという思想」
(p.175)
………… ダーウィンといえば進化論と、多くの人が反射的に答えるだろう。ところで実は、一八五九年の『種の起原』初版においては、進化[エヴォルーション]という名詞は一度も使用されていない。類似の事態を指すのにこの版で用いられているのは、「変化をともなう由来 descent with modification 」という、やや据わりの悪い語である。
――
結局、『種の起原』(第5版)で「適者生存」をダーウィンは用いるに至ったが、
「適者」は必ずしも単純な戦闘力の「強者」を意味していない。
何に「適する」のかというと、「環境」に対してであり、
そのときどきの「自然環境」に応じた「(最)適者」が生存した、ということになる。
だが生き残りの闘いは、種の内部で争われる。だから、
強さを頼む疑心暗鬼の集団が殺し合いで自滅するストーリーは、なにせよ一般に好まれる。
結果として「自然選択」がサバイバル・ゲームを余儀なくする。
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