『利己的な遺伝子』日高敏隆(他)/訳、1991年 紀伊國屋書店。
を読めばそこには、
負け癖のついたコオロギの物語が、書いてあったのです。なぜかなにげに悲しい話です。
(pp.132-133)
コオロギは過去の戦いでおこったことについて一般的な記憶をもっている。最近多くの戦いで勝ったコオロギはタカ派的になる。最近負け気味のコオロギはハト派的になる。これは R・D・アリグザンダーによってみごとに示された。彼は模型のコオロギをつかって本もののコオロギを奇襲した。この処置を加えたあとでは、そのコオロギは他の本もののコオロギとの戦いに負けやすくなった。おのおののコオロギは、自分の個体群内の平均的個体の戦闘能力と比較しての自分の戦闘能力を、たえず評価しなおしているものと考えられる。………… 勝つことになれた個体はますます勝つようになり、負けぐせのついた個体はきまって負けるようになるというのが現象のすべてである。はじめはまったくでたらめに勝ったり負けたりしていても、おのずとある順位にわかれていく傾向があるのだ。これには、集団内の激しい争いを次第に減らしてゆく効果がある。
それが〝摂理〟なのでしょう。〝自然の摂理〟なのでしょうとも。
限定された状況下での実験であっても、自然選択は働くのですよって。
そのすぐあとにあった、ESS 「進化的に安定な戦略」の解釈について、
参考になりそうなあたりをピックアップしてみました。
(p.139)
遺伝子プールは進化的に安定な遺伝子のセット、すなわちどんな新遺伝子にも侵入されることのない遺伝子プールと定義される状態に達するだろう。突然変異や組換えや移入によって生じる新しい遺伝子は、大部分が自然淘汰によって罰をうけ、進化的に安定なセットが復元される。ときおり、ある新しい遺伝子がそのセットに侵入することに成功し、遺伝子プール内に広がってゆくのに成功することもある。すると、不安定な過渡期を経て、やがて、新たな進化的に安定な組合わせにおちつく ―― ほんのちょっとだけ進化がおこったのだ。
補注 (p.459)
本文 139 頁 「進化とは、たえまない上昇ではなく、むしろ安定した水準から安定した水準への不連続な前進の繰り返しであるらしい」
この一文は、今日よく知られている区切り平衡説という理論の一つの表現の仕方についての、みごとな要約になっている。恥ずかしながら、この推測を書いたとき、私は、当時のイギリスの多くの生物学者と同様に、この理論についてまったく知らなかったと言わなければならない。ただし、この理論はその三年前にすでに発表されていたのである。
―― 上の文章から見るに、その引用文で構成すれば、
ようするに、「遺伝子プールは進化的に安定な遺伝子のセット、すなわちどんな新遺伝子にも侵入されることのない遺伝子プールと定義される状態に達する」のであるが、「ときおり、ある新しい遺伝子がそのセットに侵入することに成功」してしまうので、進化とは「安定した水準から安定した水準への不連続な前進の繰り返し」であることが理論づけられる。
というわけで……
つまり「進化的に安定な戦略」のセキュリティは、特定の条件の下では、一切の攻撃をはじき返すにもかかわらず、その防御力に〝完璧〟ということはありえないので、環境の変動などによって〝ときおり〟は、思いもかけぬセキュリティ・ホールが露呈してしまうこともあろう。
そのエラーの糊塗ないし修繕への取り組み自体、ある程度の仕様の改変を伴わざるを得ないので、いずれにせよ、安定だったはずのセキュリティ・システムにも、新たな安定に向かっての進化が起きる。
ドーキンスの記述によれば、そういうことになる。納得できる話だ。
生命は、不完全であるからこそ進化する。未知への旅の行程に完璧を求めては酷だ。
仕様の変更に〈完全〉はないだろうし、だから〈完全な進化〉はありえない。
また《完全》な存在は、変化した瞬間に複数の〈完全〉の可能性を示す。
となれば、どちらの〈完全〉が本当に《完全》なのか?
より〈完全〉な〈完全〉とは〈不完全〉でしかないだろう。
完全体に進化は無縁だ。なのだし《完全》には「変化できかねる」という難がある。
ひとの論理性や合理性はそもそも不完全な代物だ。
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