電脳に判断力を求める取り組みと、想いが重なる。
意識は脳の〝ゆらぎ〟から発現すると風が噂する。
次の引用文で、ドーキンスは、一般的な理解からすれば逆説的な文章を書いていると、いえよう。
再三再四、生物学者に非ざる人たちが、遺伝子に事実上先見の明を導入することによって、私に群淘汰の一形態を認めさせようとしてきた。「遺伝子の長期的な利益は種というものの絶えざる存在を必要とし、したがって短期的な個体の繁殖成功を犠牲にしても、種の絶滅を阻止する適応を期待すべきではないのか?」というわけだ。私が自動制御やロボット工学の言葉を使い、遺伝的プログラム作成を指して「盲目的」と述べたのは、この手の誤りの機先を制しておこうとしたからなのだ。しかしもちろん、盲目的なのは遺伝子であって、遺伝子がプログラムした動物ではない。人間の造ったコンピューターと同じように、神経系は知性や洞察力を示しうるくらい十分に複雑になることだってできる。
〔リチャード・ドーキンス『延長された表現型』日高敏隆(他)訳 (pp.41-42) 〕
この邦訳引用文末尾で「人間の造ったコンピューターと同じように、神経系は知性や洞察力を示しうるくらい十分に複雑になることだってできる」と明言され、つまりは人工知能が〝知性や洞察力〟を示すのと同じように、動物の神経系もまた〝知性や洞察力〟を示すことができるというのだ。
原文を確認したわけではないけど、翻訳文がその趣意を正しく表現しているなら、人間にできることが〈自然選択〉のはたらきで不可能であるはずはないという論旨なのである。
人間の科学技術はいまのところ、〈自然選択〉による進化の後追いをしているにすぎない。
このことは、実は、「ブラインド・ウォッチメイカー」の主題の一つとして、著者の次作につながる。
コンピュータとか、ロボットは、融通のきかない自動機械(オートマトン)だと当時すでに知れ渡っていた。
執筆された時点で、一般的には、人工知能・人工生命にそれほどの期待感はなかったはずだ。
近いうちに人間はチェスでコンピュータに勝てなくなる、といった確信はあったろうけれど。
将棋はまだまだ無理だ、といわれていた時代だ。
それも全部、過去の物語となった。
R. Dawkins, 1976‐1982. 加速する進化 Ⅱ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/replicator.html
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