インテリジェント・デザインは《神》の創造物を意味する。
そこで展開される論拠の、代表的なものに〝ヒトの眼〟が挙げられる。
このように複雑な構造物が、「偶然にできた」とは、とてもじゃないが思いようがない。
ところが、よくよく調査してみると、絶賛される構造物の機能に比して、デザインのセンスはいかがなものか。
網膜のひとつひとつの細胞から脳へと延びてゆく視神経のケーブルは、いったん光の来る方向に突き出ているのだ。
だから視神経の束は、網膜の一点に穴をあけて、にわかに、正常な向きへと、方向転換する必要ができた。
盲点として知られる、それが、ヒトを含む、〝哺乳類の眼〟全般にある構造体の特徴だ。
〝ヒトの眼に与えられた盲点〟はインテリジェント・デザインでは説明できない盲点ともなる。
どうしてそういう「芸術的な設計」となったか。
その都度、生存のための毎回のテーマが課せられて、生き延びてきた生命がある。
進化の歴史は、いま、この瞬間をしのがなければ、明日はないと保証付きなのだ。
日々のその場しのぎに改良された構造物が、最初から「知的に設計された」とは、とてもじゃないが思いようがない。
ここまでは、よく目にする、論点だ。
けれど。ここにもうひとつの盲点がある。デザイン上の盲点は、〝哺乳類の眼〟には与えられているけど、海洋生物の〝タコの眼〟などには与えられていないようなのだ。
と、すれば《神》の「知的設計」は、〝タコの眼〟に発揮されたといえよう。
やろうと思えば、《神》にも技術的に正常な設計は可能と、実証された。
なればこそ。論をまとめれば構造体としての《神》の眼には盲点があったらしく、だからこそ、「神の似姿」であるヒトにも、盲点があるのだ、と説明可能となる。
盲点をもつという、一見不完全さが、それを超克する《神》の完璧さをいっそう物語る。
説明というのは、都合のいいものだ。
事実は、それぞれが何を信じるかで、変わる。
第二の盲点となった〝タコの眼〟にまつわる物語は、リチャード・ドーキンス著『盲目の時計職人』 (p.165) で初めて目にした。〝タコの眼〟のことはあまり語られないようなので、一般論としては盲点なのかもしれないというわけで、引用しておく。
異なった進化系列は、その起源が独立であることを、細部における数多くの点で示している。たとえば、タコの眼はわれわれの眼にとてもよく似ているが、その視細胞から伸びている軸索は、われわれの眼のように、光のくる方に向いてはいない。この点では、タコの眼はより「気のきいた」設計になっている。タコの眼とわれわれの眼は、ひじょうに異なった点から出発して似たような終点へ到達している。
と、邦訳書のそのページには記されている。
別々の基礎構造から出発して、似たような表現型をもつに至るという、進化が秘めたある種のベクトルがテーマとなっていて、そのベクトルは同じ段落中に〝力(パワー)〟と表現される。
シャチは獰猛な種類のサメと比較されがちだし、それ以上に姿形がそっくりでまったく別種の生物は多いと聞く。
かくして、試行錯誤の歴史自体が、並進しつつ繰り返されているのだ。
全貌は見えない。だからこそ、というべきか。
まだまだ多くの思考錯誤も語られよう。そこに何を信じつつどこに事実を展望するか。
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