2017年7月25日火曜日

あざなえる縄の如し吉凶の 説明としての神や霊

 凶事をもたらす超自然的な作用は、説明不能であるがゆえの信憑性を伴います。
 たとえば英語では、the evil eye 。「にらまれると災難がくる」といわれ、凶眼、邪眼と和訳されるようです。
 同等の日本語では『広辞苑』に「邪視 (evil eye) 」として、項目がありました。「他人に病気や死などの害悪を与える神秘的な能力を有すると考えられている人のまなざし」とされています。
 いっぽうで、「神の目」も、人間の悪事を見逃さない役目を果たすことで、知られます。

 さすれば。どこぞで「目の看板」を立てたとか、それだけでモラルの改善があったとかいう話題も耳にしたことがありまして。
 これなどは「他人の目」の効果でしょうが、強制された感のある公共道徳は、長期的には、道徳心の低下を招くような気もいたします。
 過剰な強制に対しては、過剰な反発が伴うでしょうし……。

 というわけで、「神の目」効果も未だ、敬虔な信者たちの悪事を根絶するには至らないようです、が。
 神や霊は、悪事だけでなく、何事も見逃さないので、すべては因果応報として、説明可能となります。
 説明できないどんなことでも、説明可能となるという、説明が、なぜかそれだけで説得力を持つのです。
 ところがいつからかその神や霊を説明するための説明が、必須となってきて、人間は説明不可能なものを説明するという縄に絡めとられる破目になっちまったようです。

 人間が刹那的な悪事を遠ざけるのは、未来を予測する能力を身につけたためともされています。
 長期的には、裏切りよりも、協調のほうが、総利益が大きくなることが知られています。
 けれども、利益を高めることの最終的な目標や目的を未来にゆだねるだけなら〝空虚〟な現在の刹那が残ってしまいかねません。
 それでも、大多数のひとびとは刹那的な生き方を憎みさえするようにできているらしいのです。
 列への割り込みを憎悪するのは、自然な感情のようです。
 ささやかな悪事を許せば、いずれは大きな災厄となって我が身に降りかかると、経験が教えてくれるからです。
 説明できないけれども、憎悪の感情が「地獄へ落ちろ」と、もし叫んだなら。
 少なくとも、神や霊の超自然的な存在は、必然となって、我が身に帰ってくるでしょう。
 そのとき地獄は、言霊として(心理的に)、顕現することとなります。
 危機管理上、危険には敏感なように進化してきた歴史があるのですから。
―― そういうわけで。

人を呪わば穴二つ、と書こうとすれば変換辞書に成句として登録済みだったようですが、
地獄は少なくとも、一つだけは、望んだ自身のために用意されるに違いありません。
一瞬で消え去ることが、望まれます。

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