全身のヤケドと喉の渇きに水に飛び込み溺れた、無数の死体が、流れもせず折り重なった川がある。
神の名のもとに与えられる恐怖と繰り広げられる地獄絵図に、連鎖反応的な憎悪を抑制する地上の努力は、いっそうの爆発をもたらしかねない。
だからだろうか、神は誰かの幻想だという。
神を幻視というならそれはどこにもない。妄想を敵として憎むのはナンセンスだ。
幻を相手に戦いを挑むのは不可能だから……。
叛逆すべき神が幻なら、戦いもそこにはなくなる。
けれども。いつのまにか、ラテン語の名をもつ、ヘブライの堕天使さえも、そこに存在する。
それでも。だからこそ幻に戦いを挑むというのか。進化論者リチャード・ドーキンスは『神は妄想である』といって、それらの著書で論戦を張る。
彼の論理は、申し分ない。非の打ち所がない。
完璧な概念には危うさを感じる。気をつけなければならない。
彼の主張は、生命の発生と進化に神の存在を必要としないものだ。
だから、なのか? その神を誰かの幻想だという。
彼は、自身の戦うべき神を虚妄だという。そうじゃない。彼の論敵は人間なのだ。
彼の天才ぶりは、多くの問題を同時に処理してしまう。
彼の論旨は明解だ。彼の理論に神は必要ない。だから、神は存在しない、と彼は語る。
創造論者の主張する、偶然による生命進化のありえないほどの確率に、科学者はそれほど愚かじゃないと、主張を切り返す。
「設計されたものであるような見かけをもつものについての自然科学的な説明のありえなさの確率が、宇宙のすべての原子の数よりも大きな尺度で、本当にとてつもないものであるというのが真実なら、それに騙されるのは、同じようにとてつもない愚か者だけだろう。」〔ドーキンス自伝Ⅱ (p.589) 〕
彼は忘れず、その直後にはデザイン説の魅力を評価する。
「設計(デザイン)という幻想には、驚くほどの説得力がある」〔ドーキンス自伝Ⅱ (p.590) 〕
と前提しつつ、しかしながらも、
「生命の複雑さという問題を、神と呼ばれるもう一つの複雑な実体を仮定することで解決しようという試みは明らかに無益である」〔同上〕と、きちんと付け加える。
その間に、彼の問題解決方法が明示されている。
「漸進的で累積的な自然淘汰は、この問題を解決しており」〔同上〕、そのため知的設計は必要なくなるので、こうして神の存在は否定されたかのようだ。
彼の奉ずる進化の理論では、一方的に不利なものは、残らないだろう。
けれど、必要ないという理由で存在まで否定されることはない。具体的には、自然淘汰の理論ではタダ乗りの遺伝子としても説明される、余分の DNA がある。
説明に不要だからといって、必ずしも「存在しない」とは、一般的にはいえない。
また彼の理論によれば、それほどまでに「ありえない神」を信じる者は、ありえないほどの愚か者という可能性を秘める。
それでは。なぜ、示唆されるそれほどまでにありえない愚か者が、地球上に、これほど多く生きているのか。
地球とは、それほどまでにありえない生命体が現存する天体だと、彼は主張しているのか?
カリカチュアされた進化論者は、おうおうにして妄想にしか存在しないという。
カリカチュアされた創造論者も、同様に妄想にしか存在しないのだろう。
けれどもそれらは部分的に、実例として現実の中に垣間見えてしまう。
いずれにせよ、地獄の片鱗は地上で見ることができるし、楽園もきっとそうなのだろう。
少なくとも、神を必要としない信念は、信仰の一種だろうと、思われる。
だから対立しているように見える主張は、もしかして表現型の違いに過ぎないのではなかろうか。
一神教の根本原理として、他の可能性は排除されなければならない。
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