特異点(シンギュラリティ)となるその期日が予想されています。
カーツワイルのその邦訳書は、2016 年 4 月に、NHK 出版から[エッセンス版]として、
『シンギュラリティは近い』の書名でかなりコンパクトな編集版の形になって再刊されています。
そちらから引用すれば、特異点の年が明示されている記述は次のページにあります。
ここまでくると、確かに抜本的な変化が起きる。こうした理由から、シンギュラリティ ―― 人間の能力が根底から覆り変容するとき ―― は、二〇四五年に到来するとわたしは考えている。
非生物的な知能が二〇四〇年代半ばには明らかに優勢を占めるにしても、われわれの文明は、人間の文明であり続けるだろう。生物を超越はするが、人間性を捨て去るわけではない。
〔レイ・カーツワイル『シンギュラリティは近い』 (p.107) 〕
この引用文の最後の部分に、
「われわれの文明は、人間の文明であり続けるだろう。生物を超越はするが、人間性を捨て去るわけではない。」
と書かれているのですけれども、「われわれの文明」が「人間性を捨て去る」ことはないとする、その理由は不明のままに終わっている感じがします。おそらくはそれがあくまでも「われわれの文明」に限定された表現だから、そのことが条件となって整合性を保つのでしょう。
―― こういうことを含めて。
性能面において人間の脳と比較にならないほどの進化を遂げた機械文明が生物的 DNA の遺伝子をなおも存続させようとする必然性は、最後まで語られていないようなのです。―― が。
ただ思うに、これまでの進化の必然性としては、予定調和な可能性の組み合わせだけでなく、突然変異という〝間違い〟は強力な道具だったはずです。
生命は、コピー・ミスを利用して、進化してきたといわれます。
その最初期の段階では、可能性という多様性のために、繰り返される〈エラー〉は必須でもあったでしょう。
極端に〈エラー〉の少ないテクノロジーに主導された文明は、進化という意味での可能性をどのように残していくのでしょうか?
カーツワイルは、人間はサイボーグ化の技術が急速に発展して、
機械と融合していくといいます。
ダイソン球の構想を取り上げた際には、次のように語られました。
一九五九年、宇宙物理学者のフリーマン・ダイソンは、進歩した文明において恒星の周囲を球殻で覆ってエネルギーと居住地を供給するという構想を提唱した。…………
ダイソンは知的な生物が殻や球の内側に生存すると考えたわけだが、文明は、ひとたびコンピューティングを発明すれば、急速に非生物的知能へ移行するため、殻に居住しているものを生身の人間とする理由はないだろう。
〔レイ・カーツワイル『ポスト・ヒューマン誕生』 (pp.459-460) 〕
彼は、テクノロジーの部品で人間を改造していくことによって、
驚異的な寿命を得ることができるといいます。
ただし、機械化した身体の生物的な部分については、何が残るのか何も残らないのかについては、よくわかりません。
われわれは現在、永遠と言えるほど長く生きる手段を手に入れた。
〔『シンギュラリティは近い』 (p.222) / 『ポスト・ヒューマン誕生』 (p.491) 〕
このように書かれた、そのすぐあとのページで「死は悲惨だ。」と、ひとつの神経系が失われることへの悲しみが語られています。
現状では、脳のバックアップは取れないからなのです。
ということであれば、彼の身体はその生物的脳を死なせないためにあるようです。
―― どうやら彼にとっては、人間が生きているということは、その知能が生きているということらしい。
と、推測できるのですが、上に引用した記述のもう少しあとには、
「わたしにとって人間であることは、その限界をたえず拡張しようとする文明の一部であることを意味する。」
と、文明の知性が前進すべき秩序と複雑さへの道が示されています。
またその間には、
「だがときには、深い洞察により、複雑さを減少させつつ秩序を増加させることも」
できると、示唆されているのも見えます。
それらの記述のなかで、秩序の増した感情については、語られてはないようですけれど、一般的にはおそらくもっと複雑な感情になると予想されます。
彼のいう「われわれの文明」には、理性的でない人間の棲息する場所は残されているのでしょうか?
われわれ、とは、なにものを意味しているのでしょうか。
シンギュラリティ: 加速する進化 Ⅳ
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/Kurzweil.html
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