2017年5月9日火曜日

「いくつかの進化理論」と「神のそなえ」と

藤井清久氏による邦訳からの、引用です。

 二十世紀に入って、自然選択による進化は、キリスト教著作家の多数派によって次第に受け容れられるようになった。さらに、一九五〇年の回勅「フマーニ・ゲネリス(人類について)」(Humani generis) のなかで教皇ピウス十二世は、生物学的進化がキリスト教信仰と両立し得ることを認めた。もっとも、人間霊魂の創造に、神の介入が必要であると論じたけれども。教皇ヨハネ・パウロ二世は、一九九六年十月二十二日の教皇庁科学アカデミーに対する教書のなかで、聖書の語句を宗教的教えとしてより科学的言明として解釈することは、遺憾に思うと述べた。

 我々は、新しい科学的知識により、進化論が単なる仮説ではないことを理解するようになった。この理論が、知識の種々の領域における一連の発見に続いて、研究者によって次第次第に受け容れられるようになったことは、実に驚くべきである。求めたわけでも、造りあげたわけでもなく、独立に行なわれた研究結果の一致は、それ自体この理論を支持する意味のある論証である。
〔フランシスコ・J・アヤラ『キリスト教は進化論と共存できるか?』 (pp.131-132)

また、『現代思想』 1998 年 6 月号 (vol.26-7) には、
「ヴァティカンと科学 (承前)」として、
川田勝氏による邦訳と解説文が掲載されています。
そこには次のような記述もあります。

 そして、実を言えば、私たちは「進化論」と言うのではなく、「いくつかの進化理論」と言うべきです。このように複数の理論があるのは、進化のメカニズムについて提出されたさまざまな説明があるせいであるのですが、それだけでなく、進化のメカニズムを説明するもとにある哲学がさまざまであることのせいでもあります。
〔「 1996 年 10 月 22 日の科学学士院あての教皇ヨハネ・パウロ 2 世の書簡」より〕

―― 日本発の「今西進化論」があります。本人による次の談話があります。

今西 西田幾多郎さんの哲学論文集というのがあるねん。第一巻から第五巻ぐらいまであったやろ。その第二巻に生物論というのがあるねん。それは繰り返し繰り返し読んだ。それをもとにして『生物の世界』を書いたんや。
柴谷 ははあ。その系譜はぼくは全然知らない。
今西 『生物の世界』の最後の章が「歴史について」だけれども、そこで進化論が出てくる。わしはその時からダーウィニズムには反対派ですけどね。しかし、ひじょうにはっきりしたノン・セレクショニストになるのは、それからだいぶしてからのことで、人文科学にいる時、一九六四年に「正統派進化論にたいする反逆」というのを書いた。これではじめてノン・セレクショニストの正体が出てきます。適応しているものが生き残るのとちごうて、生き残るか生き残らんかは運で決まっているのやということは、この時に出てくるねん。
〔今西錦司・柴谷篤弘/対談『進化論も進化する』 (p.19)

 ここで、ふと思ったのは、キリスト教徒にとっての「くじ運」は、〈神のはたらき〉と同等の意味をもつ場合があるということです。
 であれば、自然選択に「運」をもちこむ考え方は、キリスト教徒にとっては、〈神の摂理〉をはたらかせやすいかもしれません。
 そういう偶然の積み重ねを、〈神の摂理〉と観ずるのか、それとも無神論的に〈ただの偶然〉の結果と考えるかが、「哲学的立場の違い」ということになるのでしょう。
 日本人の庶民感覚としては、自然の摂理にも「お天道(おてんと)さまが、みてごじゃる」と、したほうが、世間的に通用しやすいようにも思えます。
 するとそのあたりに、キリスト教の〈摂理〉すなわち「神のそなえ」との、理解の共有点が見えてきます。
 進化論者は必然的に「無神論者」になるわけではないでしょう。
 そうやってみていけば。進化論の自然選択が「無神論」を導くのではなく、進化論を理由として、無神論の立場の表明がなされただけなのかも、しれません。


〈神の国〉と進化の理論
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/evolution.html

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