まったくもって、最初の人情的ふるまいは、冷酷な戦略のはじまりにすぎないのだ。
いわゆる〈ナッシュ均衡〉の実験を現実の人間で繰り返せば、時に戦略が「しっぺ返し」的にもなるらしい。
いずれにせよ、〝合理的経済人〟のとるべき戦略ではない。裏切られる可能性の高い戦略は戦略ともいえないと、限定された線形理論では、単純・明解に一蹴されようか。
1950 年以来、そういう一連の実験的状況は、「囚人のジレンマ」と呼ばれるようになった。
互いに協力し合えば明るい未来が約束されているのに、もし一方的に裏切られたなら、悲惨な地獄が待っている。けれど、こっちも裏切れば、被害は最小に抑えられるのだから……
ここで〝ジレンマ〟にさいなまれるのは、〝合理的経済人〟ではない現実の理性的人間だ。
経済人が合理的ならば、理論的には「裏切り戦略」以外を選択することなどありえない。
では、その最初から〈ゲーム理論〉に登場する〝合理的経済人〟というのは、仮想現実にすぎないのか。
なれば〈ゲーム理論〉がリアルへとつながるきっかけは〈ナッシュ均衡〉に与えられたこととなる。
天才に閃いた最強の「裏切り戦略」が現実を覚醒させたともいえる。
確実に生き延びることを目的とする生命が、ただ計算高ければ、「裏切り戦略」以外を選択することはありえないのだから。
だけど現実と理論は乖離(かいり)していく。
ここに、線的〝合理性〟の限界が、理論的あるいは実験的に示されたことともなる。
そういう合理性だけを追求した生命進化に、繁栄は、決して保証されないのだ。
だが自然は、もっと非道なサイコパスの存在を許さないわけでもない。
かれらはふたたび現実を覚醒させる切り札として用意されているのだろうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿