2017年5月4日木曜日

進化論と優生学そして〈数字〉への信仰

 1858 年 6 月 18 日、チャールズ・ダーウィンはアルフレッド・ラッセル・ウォレスから「変種がもとのタイプから無限に遠ざかる傾向について」という論文を受けとった。
 同年 7 月 1 日、リンネ学会の会合でダーウィンの研究とウォレスの論文が報告され、ダーウィンとウォレスは自然選択による進化論の共同発表者と認められた。
 1859 年 11 月 24 日、ダーウィンは『種の起原』を刊行する。
 ウォレスは、1864 年の「自然選択により演繹される人種の起源と人類の古さ」という論文以降、人間の知的道徳的精神は「指導魂(ディレクティヴ・マインド)」という超自然的な存在者によって導かれていると主張するようになる。
 以上は、丹治愛『神を殺した男』を参考にまとめたもの。
 同書には優生学についての記述もある。次は、その箇所の引用文。

 ちなみに、ダーウィンのいとこ(エラズマス・ダーウィンの孫)でもあり、『遺伝的天才』(一八六九)において近代優生学の父となったフランシス・ゴールトンが「優生学」という言葉をつくったのは、一八八三年、『人間の能力とその発達に関する研究』においてのことである。
 それ以後、ある種の結婚を禁止し(消極的優生学)、別な種類の結婚を奨励する(積極的優生学)優生学的運動は、メンデリズムの再発見(一九〇〇)以後に発展する遺伝学とあいまいにむすびつくかたちで、二〇世紀をつうじて不吉な力を発揮しつづける。
 たとえば、ゴールトンの弟子のひとりにカール・ピアソンがいる。ヴィクトリア朝中期の経済的繁栄の結果として労働者の生活水準(とくに栄養水準)が大幅に改善されていくなかで、自然選択の度合いを示す死亡率が急速な低下を示したことに危機感を覚えた彼は、「もし自然が行なう効果的ではあるが手荒い人種改良をわれわれが拒むのであれば、その仕事をわれわれみずからの手で引き受け、精神的・肉体的に劣る者が多産化せぬよう手段を講じなくてはならない」(バーナード・センメル『社会帝国主義史』)と主張していた。このような優生学のもつ不吉な本質は、ほどなくナチズムの反ユダヤ主義的政策のなかに顕在化していくことになる。
〔丹治愛『神を殺した男』 (p.51)

 かくして〝科学的〟な新しい教義は、〈数字〉への信仰心をたかめていったわけだが。
 数字への信仰は、ダーウィンの進化論を待たずとも、すでに萌芽していた。
 1851 年に死去したサミュエル・ジョージ・モートンの研究は、さまざまな人種の頭蓋骨を収集して、それをできるだけ、自己の信念に従って正しく計測することだった。残念なことには、彼の信念の強さが、観察と計測の結果に相応の影響をもたらしたらしい。
 その信念とは、頭蓋骨の大きさから客観的に人種をランクづけられるというものだった。
 モートンの研究をたいへんに評価して「厳密で注意深い」と称賛した、オリヴァー・ウェンデル・ホームズには同名の息子がいた。オリヴァー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアは、1927 年、ヴァージニア断種法を支持する最高裁の判決を申し渡した。

精神薄弱といわれている子どもを持つ若い母親のキャリー・バックは、スタンフォード=ビネー式で精神年齢九歳であると採点された。キャリー・バックの母親は当時五十二歳であったが、精神年齢を検査したところ七歳であった。ホームズは、二十世紀における最も有名で冷酷な言明の中で、つぎのように述べている。
 「公共の福祉が善良な市民たちに、その生命を要求する場合があることを一度ならず見てきた。現在まで国力を弱体化してきた人々に、このわずかな犠牲すら求められないとするならばおかしなことである。……三代もつづく痴愚はもう結構である。」
 …………
私は、一九八〇年二月二三日の『ワシントン・ポスト』紙の記事にショックを受けた……。「ヴァージニア州で七五〇〇人以上を断種」がその記事の見出しであった。ホームズが支持したあの法律が一九二四年から一九七二年まで四八年間も実施されていたのである。手術は精神衛生施設で、「未婚の母、売春婦、軽犯罪者、訓育上問題のある子ども」を含む精神薄弱や反社会的であると考えられる白人男女に主として行なわれていた。
〔スティーヴン・J・グールド『増補改訂版 人間の測りまちがい』 (pp.457-458)

 知能指数が、人間の価値を定めようとする時代は、日本では、戦後の高度経済成長期以降も続いた。
 かつて優生学に関する資料を調べてみたことがある。
 すると「ゆとり教育」の話題まで、でてきたので、びっくりしたものだった。
 そのときの資料から、それに限定して引用させていただくと。教育課程審議会会長を務めたことのある三浦朱門氏の証言が紹介されているものから。

……〝ゆとり教育〟を深化させる今回の学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた最高責任者だった。
「学力低下は予測し得る不安と言うか、覚悟しながら教課審をやっとりました。いや、逆に平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。
 …………
 今まで、中以上の生徒を放置しすぎた。中以下なら〝どうせ俺なんか〟で済むところが、なまじ中以上は考える分だけキレてしまう。昨今の十七歳問題は、そういうことも原因なんです。
 平均学力が高いのは、遅れてる国が近代国家に追いつけ追い越せと国民の尻を叩いた結果ですよ。国際比較をすれば、アメリカやヨーロッパの点数は低いけれど、すごいリーダーも出てくる。日本もそういう先進国型になっていかなければいけません。それが〝ゆとり教育〟の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
 ―― それは三浦先生個人のお考えですか。それとも教課審としてのコンセンサスだったのですか?
「いくら会長でも、私だけの考えで審議会は回りませんよ。メンバーの意見はみんな同じでした。経済同友会の小林陽太郎代表幹事も、東北大学の西澤潤一名誉教授も……。教課審では江崎玲於奈さんの言うような遺伝子診断の話は出なかったが、当然、そういうことになっていくでしょうね」
 それまで取材したさまざまな事実、いくつもの言葉が思い出された。…………
〔斎藤貴男『機会不平等』 (pp.40-41)

 20 世紀に、進化論と創造論と無神論と優生学とは、まさに〝科学的〟という同じ言葉で語られるようになった。
 アメリカでは、1920 年代から、ファンダメンタリストが反進化論運動を展開しはじめた。
 それについては「スコープス裁判」( 1925 年 7 月)での論戦が有名だ。
 同じ言葉で語ろうとして、進化論と創造論に、明確な、対立が生まれた。
 やがて〈創造科学〉が反進化論運動の先頭に立つが、それについては次回の話としたい。


1859 年:ダーウィンの衝撃
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Darwin.html

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