2017年5月6日土曜日

神の物語を科学する「創造科学」

 一神教が語られる『聖書』で、主なる神が複数形の箇所があります。

新共同訳『聖書』旧約聖書「創世記」 11 章 5 節から 7 節までを引用
 主は降(くだ)って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた、
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」。

 ここに語られた、神による「我々」という複数形の一人称は、子であるイエス・キリスト及び父なる神と解釈されて、やがては〝三位一体〟説へと発展していきます。
 解釈は自由です。ですから、自由な信仰の立場からの反対意見もあるようです。
 神ないし神々の物語をどのように信じるか、それともてんで信じないかは、各人の内面の問題でしょう。
 神の物語を「神話」といいます。神々の物語も「神話」です。
 神が単数形でも、複数形でも、同じ「神話」です。

 それはさておき、そのような神の物語を科学的に考察しようという社会的な働きがあります。
 再現性という点で壊滅的な弱点を有する進化論も、科学ではないと、疑われる展開もあるようです。進化論を疑うというのは、ようするに、検証不可能な進化論を科学的というなら、同じように、「創世記」も科学的らしいのです。
 特にアメリカ合衆国でそれは衰えることを知らず盛んに検討が続けられているようです。

 ここに深い、とても深い、事情があります。
 新世界アメリカはキリスト教徒の理念を体現すべき〈神の国〉でありつつ、政教分離という国策があるので、特定の宗教にかたよったものは、公立の教育機関では授業に採用されないからなのです。
――、っちゅうことなら、「創世記」を資料とした、「創造科学」の研究が自然科学として国家に認められたなら、『聖書』を堂々と授業に持ち込めるという次第なのであります。そういうことが真剣に画策される時代なのであります。
 でも、もし神の物語の記述が文献として、まともに科学されたなら、その都合の悪い場所も平等に扱われてしまうでしょう。

口語訳『聖書』旧約聖書「レビ記」 19 章 27 節
あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。

 この文言は、多くのひとびとにとっては、無視したいか、気にならないものでしょう。
 しかしながらもたとえば、ひとの道を『聖書』のいいつけを根拠として主張するなら、こういうこともすべて忠実に守られなければならないはずなのです。
 やはり宗教は自然科学とはジャンルが違うと思われるのですが、こういうところにも、科学的な根拠は見つけられるのでしょうか? それともこのあたりは科学とは関係ないのでしょうか。
 神の言葉に忠実でありなさいというひとは、こういう些細なことこそ、忠実でなければならないのではないかと、思ったりもします。
 あろうことか、聖書の語句に忠実であろうとするひとびとは、自分で聖書を読まないという風聞さえ耳にします。
 自分に都合のいいだけの信仰は、擬似科学と同じような、擬似信仰なのではないかと思われてなりません。

 云々、云々、と――。
 このあたりの新しい闘争が、創造論と進化論で、続いているわけです。
 日本では、もともとそういう闘争神話が浮世離れしているため、アメリカの世情が理解しがたいのですが。

 1968 年に、アメリカ合衆国の連邦最高裁は、反進化論州法が「国家と宗教の分離」を定めた合衆国憲法修正条項第一条に反するという判決を下しました。
 1970 年代後半に、自然科学の博士号をもち「創造科学」を研究する、「創造科学者」が登場します。
 創造論と進化論は対等の科学的な仮説だから、両者にあてられる授業時間は等しくなければならない、とする「授業時間均等化」が訴えられ、それに則した州法が、1980 年代にアーカンソー州とルイジアナ州で成立しました。
 1987 年、連邦最高裁は「均等化」法にたいし、「生物進化論は科学であるが、創造論は特定の宗教に基づいたドグマである」から「公立学校の科学の時間にそれを教えることは国教樹立を禁止する合衆国憲法修正条項第一条に違反する」という判決を下しました。
 1990 年代になると、かつてはダーウィンも学んだ、ウィリアム・ペイリの設計論が、復活しました。
 知的設計者を想定する、新しい科学です。
 進化全体に、知的な存在がかかわっていることを「知的設計(インテリジェント・デザイン)」説といいます。

ジョン・E・ジョーンズ判事は、二〇〇五年十二月二十日のドーヴァー判決で、次のように書いている。「 IDM[ Intelligent Design Movement, 知的設計運動(インテリジェント・デザイン・ムーヴメント)]の提唱者は、この設計者が宇宙異星人あるいは時空旅行する細胞生物学者であるかも知れないことを時折示唆するけれども、設計者が神ではないことを示すまじめな代案を、IDM 会員が提出したことは一度もなかった」。
〔フランシスコ・J・アヤラ『キリスト教は進化論と共存できるか?』 (pp.103-104)

 興味深いのは、著者が違えば、創造論者に関して次のような記述も見えることです。

国有林や国立公園内の資源利用に利害をもつ林業、鉱業、畜産業の関係者とファンダメンタリストを中心とするキリスト教保守派は共和党保守派を支え、米国の反環境運動の中心に立っています。
 天啓的歴史観に立つファンダメンタリストにとって、全地球的な環境問題は終末が近いことを示す兆候にすぎません。全地球の環境を保護しなければならないとする環境主義は反キリストが支配する世界政府樹立につうじる道になるとし、地球を救うことができるのはキリストの再臨、神による新しい天と地、新しいエルサレムの樹立によるのだから、そのためには救いの福音をのべ伝える伝道をいっそう活発にし、祈りをもって終末に備えるのがクリスチャンの使命だ、とファンダメンタリストは主張するのです。
 …………
 進化論を拒絶するかぎり、ファンダメンタリストは生態学的視点を理解できず、現代の環境問題を十分に理解できなくなります。
〔大谷順彦『進化をめぐる科学と信仰』 (p.212)

 多くのキリスト教の信仰者が環境問題に積極的に取り組むなかで、ファンダメンタリストは反環境運動を推進しているというのです。
 その理由が、進化論を信じないからだということのようです。
 これはもう、完全に信教の自由の問題が絡むので、自然と手をこまねく以外にどうしましょう。


信仰と創造科学と知的設計
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/theology.html

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