『米国アカデミー会報』にジョン・ナッシュの 2 ページの論文が掲載された。
〔シルヴィア・ナサー/著『ビューティフル・マインド』塩川優/訳 新潮社刊 (p.165) 参照〕
のちに〈ナッシュ均衡〉と呼ばれる画期的な証明が世に出た年は、一般にこの年とはなっていないようだ。
日本語訳資料として次のものが、『ナッシュは何を見たか』(日本語版/シュプリンガー・フェアラーク東京刊)に収録されている。
Proceedings of the National Academy of Sciences, 36 (1950), 48‑49
「 n 人ゲームにおける均衡点」
いずれにせよ、年明け早々には、動きがあった。〈ナッシュ均衡〉を受けて、ランド研究所で新しい形の戦略ゲームが開発された。
1950 年 1 月、ランド研究所のメルヴィン・ドレッシャーとメリル・フラッドの考案した実験「非協力的な二人」が、アーメン・アルキアンと、ジョン・D・ウィリアムズを被験者として行なわれたのだ。
〔ウィリアム・パウンドストーン/著『囚人のジレンマ』松浦俊輔(他)/訳 青土社刊 (p.139~) 参照〕
1950 年 5 月、ナッシュの博士論文の指導教授アルバート・タッカーが、スタンフォード大学で、「囚人のジレンマ」についての講演を行なった。
1950 年、ナッシュの博士論文「非協力ゲーム」が完成した。その年の夏、ナッシュはランド研究所の顧問研究員として着任した。
1954 年夏、ナッシュはランド研究所を去った。同年ジョン・フォン・ノイマンはランド研究所の顧問を降りて原子力委員会の委員となった。
1994 年 10 月、ナッシュのノーベル経済学賞受賞が決定した。
20 世紀のなかばにナッシュが最初の脚光を浴びたころの世界では。
1943 年にフォン・ノイマンがマンハッタン計画に参加した。
1945 年 3 月、「 EDVAC 報告書の 1 次稿」のコピーが世界中にバラまかれた。それは、フォン・ノイマン型といわれる「プログラム内蔵方式」のコンピュータの青写真であった。
弾道計算に、高速計算可能な新型コンピュータの開発が求められていた。
1950 年の当時にフォン・ノイマンが語ったという、証言の記事がある。1957 年に彼を追悼して、クレイ・ブレイ・ジュニアが『ライフ』誌に寄稿したものだ。
「明日ソ連を爆撃しようと言うのなら、私は今日にしようと言うし、今日の五時だと言うのなら、どうして一時にしないのかと言いたい」
1949 年 8 月には、ソ連が原爆開発に成功した。
1950 年 6 月に、北緯 38 度線の侵犯をきっかけにはじまった朝鮮動乱は「朝鮮戦争」といわれた。第二次世界大戦終結時の陣営の構図が明確化されるとともに、アメリカの対日政策は大きな転換点を迎えることになった。
1952 年、アメリカは水爆実験に成功し、翌年にはソ連も実験を成功させた。
1953 年 7 月に朝鮮動乱の休戦協定が結ばれて、それは現在も継続しているが、その「戦争」状態が終わったわけではない。
1950 年代初頭という時代は、いわゆる〈非協力ゲーム〉が導く数学的〈ナッシュ均衡〉を支持する方向で推移しているようでもあった。
1970 年代になると、ゲーム理論は生物学からの協力を求められた。理論そのものは、他分野に協力的であった。
そして〈協力ゲーム〉における〈ナッシュ均衡〉を模索する形で、再評価がはじまる。
結局、〈ナッシュ均衡〉がもたらしたジレンマは、論理上の〝落とし穴〟であるということらしい。
―― 最悪の事態を想定し備えるばかりが、合理的なのだろうか、と。
それでも、やはり短期的には、裏切り戦略は有効なのだ。かつてヒトラーが実践したように。
John F. Nash ; ナッシュ均衡
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/games/Nash.html
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