〝排他律〟とか〝排他原理〟ともいわれていて、呼称が違う意味はよくわかりません。
その原理の内容もしかじかにしてよくわからないのですが、たぶん――ですけども、〝パウリの原理〟は内容に〝排他律(排他原理)〟を含む、ということだと、思われます。
――で。英語にも、“Pauli principle” と “Pauli exclusion principle” の、ふたつの通り名があるようです。
2 つの電子は全く同一の状態には存在しえないというパウリ排他原理によって、具体的に表される特性を電子波はもっているが、同じことは光子に対しては成り立たない。
〔P.R.ウォレス/著『量子論にパラドックスはない』 (p.36) 〕
――与えられた型のすべての粒子の同一性の原理を “principle of identity” というようです。
すなわち、原子において個々の電子の状態が 4 個の量子数によって指定され(これはスピンの上下の状態をも勘定にいれたことになる)、その一つに同時に 2 個以上の電子が入ることはできないということである。
〔高林武彦/著『量子論の発展史』ちくま学芸文庫 (p.135) 〕
素粒子の同一性に関係する問題だということは、各資料に共通して解説されています。
ようするにパウリは、同じ席に、同じ状態の電子は着席できない、という〝排他律(排他原理)〟を唱えたのです。そのあたりは、なんとのう、理解できます。
ですが、光子は、自己同一性をもたないので、同じ席に無制限に着席できるという話にもなります。
ここで自己同一性がない、自己同一性をもたないという表現は、区別する理由・手段がない、まったく同じである、ということです。
――
区別のしようがない粒子の特性である〝粒子の同一性の原理〟を〝自己同一性をもたない〟という表現で説明されると、少々こんがらがることもあるのですが、これは朝永振一郎/著 『量子力学と私』 (岩波文庫)の 「素粒子は粒子であるか」 で用いられているものなのでして、〝個別性をもたない〟という意味で理解すると納得しやすくなります(つまり「ぜんぶ私」)。
そういうわけで詳しくは『量子力学と私』にありますが、このことから、光子の実験では、例えば、確率の概念に変更を迫られます。
実は以前に、この確率の話は、竹内薫/著 『「場」とはなんだろう』 から引用しておりました。
投げれば、同じ確率で必ず、A か B のどちらかの箱に入る、ボールを、
二つ用意して、その両方を一度ずつ投げたら、その場合は、
① A と A
② A と B
③ B と A
④ B と B
の、四つの場合に、同じ確率で、入ることになります。
つまり、それぞれの場合は、4 分の 1 ずつの確率になります。
ところが、これを、ボールではなく、光子の場合で、実験すると、
〝A と B〟の場合と〝B と A〟の場合の区別がつかないので、
① A に 2 個
② A に 1 個と B に 1 個
③ B に 2 個
の、三つの場合に、同じ確率で、入るのです。それぞれ 3 分の 1 ずつの確率です。
そういうわけで、素粒子に、人類の経験による常識は通じないのです。
素粒子の常識は人間にとって、常識はずれなのです。
それやこれやで冒頭にも記したように、〝パウリの排他原理〟の内容は、ほぼわかりません。
――が。伝説となった〈パウリ効果〉とは、そういうのとはまったく違って、
「パウリがいると、実験器具が破壊される。とにかく実験がうまくいかない」
等々と、世の物理学者たちによって、滔々と語り継がれ、伝承されているものです。
有名な逸話に、旅行中のパウリの乗った列車が近くの駅を通っただけで、実験室の器具が破壊されたという、ありえないが故にまことしやかに語られる〔その尾鰭ばかりが躍動する進化系の物語としての〕説話があります。
ハイゼンベルクの回想録 『部分と全体』 によると、パウリは学生時代から、そのことを自認していたようです。
1920 年頃のことです。
「僕には実験装置とのおつきあいは一切だめなのだ」 という、パウリの述懐が、
学生時代のゼミ教室での出来事として、語られているのです。
パウリは、ミュンヘン大学でハイゼンベルクと同じゼミの、少し先輩なのでした。
余談として、ユングとパウリの共著 『自然現象と心の構造』 は、因果律に関係するものです。
1945 年、パウリはノーベル賞を受賞しています。
Pauli : 〝パウリの排他原理〟と〈パウリ効果〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pauli.html
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