2016年12月15日木曜日

公正な社会は関係ない 厚生経済学至上主義

 2800 年前のことだとも、風の噂に聞き及ぶ。
 ふたりのあいだのケーキ分割問題にはすでに解答が出ていたようです。
 比較的公平な方が分け、比較的貪欲な方が選ぶ、というものです。

これを、間違えて、いもうとにケーキを切らせ、おねえちゃんに選ばせると、
「おねえちゃん、ずるい。そっちは、あたしの!」などと、クレームが起きかねません。

そういう公正の理念は、さておき、各種文献を読んでおりますと、
〈パレート原理〉に反しないための厚生主義というのがあるようで、
各個人の取り分(分け前)を現状より下げないように気をつけつつ、
組織ないし社会全体の分配可能量を上げていくとするなら、
どうしても、不公平さには目をつぶらなければならないようです。

 そもそもに、その パレート原理 の正体ですが。
 ようやく見つけた、パレート原理 のわかりやすい説明 としては、
社会の構成員全員が一致してある社会状態を選好するならば、社会全体にとってもその状態を選択するのが望ましいと判断されなければならない
という、長沼健一郎氏によるものがあります。
〔「〈書評〉 政策評価とパレート原理」『日本福祉大学経済論集』第 24 号 (p.200) 脚注〕

 この説明だけを読むなら、特段の問題も感じられませんけれども、これをつきつめていくと、あたかも社会厚生の政策が困難窮まる様相となり果てていくがごとしなのです。
 そこで、パレート原理を優先 させようとする政策を、厚生経済学至上主義 ともいうようです。
 脚注を引用させていただいた上記〈書評〉には、199 ~ 201 ページで次のように語られています。

 本論文は「いかなる非・厚生主義の方法による政策評価も、パレート原理に違背する」と題され、論文の趣旨・結論を端的にあらわしたタイトルとなっている。すなわち何らかの政策を評価する際には、厚生主義 (welfarism) ――その政策が個人の「厚生」 (welfare/well-being) に及ぼす影響如何――“のみ”により評価を行うべきであり、「公正」 (fairness) の観念をはじめとする別個の要素を独立して勘案すべきではない(排除すべきである)。そうしないとパレート原理に抵触し、個人の厚生を損ねる (worse off) 結果となってしまう、というものである。

 経済学者の中にも、厚生主義とは別の要素を政策評価の手法に組み入れる論者がいる。たとえばマスグレーブは社会的厚生の指標として水平的公平を取り入れ、またA・センは個人の効用よりは「潜在能力 (capabilities) 」に着目すべきだとしている。実際多くの論者は、公正や正義など、個人の効用以外の独立した要素を社会厚生関数に勘案することを認めている。
 しかしながら、このような非・厚生主義 (non-welfarist) による政策評価(いいかえれば、非・個人主義的な社会的厚生関数)においては、パレート原理に違背する事態が生じる。すなわち個々人の効用以外の要素を勘案すると、その社会の構成員の効用を悪化させる事態につながるのである。このような、個人の厚生と、(それとは離れた)社会的厚生 (social welfare) というコンセプトとの緊張関係は、意外に深刻である。社会的厚生を追求することが、その社会の構成員“全員”の効用を低下させてしまうこともあるからである。

 これらの諸問題は、〈アローのパラドックス〉ともいわれる〈一般可能性定理〉に端を発するようですが、それは民主主義がもしかすると〝夢想〟なのではないかとも疑われかねないパラドックス――〈投票の逆理〉が根本のテーマとなっているようです。
 アロー (Kenneth Joseph Arrow) は、〈不可能性定理〉とも称されるそれの証明を行なったのですが、最初の証明は〈一般可能性定理〉の成立が一般的な状況では不可能であることがじきに証明されてしまいました。
 その次第がごっちゃになって、「一般不可能性定理」と、つい間違って覚えてしまいました。
 その後、1963 年にアローは著書の第二版で〈一般可能性定理〉の証明に修正を施していますが、その修正証明には、日本の村上泰亮(むらかみ やすすけ)などの論文が援用されています。


Arrow : 一般不可能性定理
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/Pareto/Arrow.html

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