2016年9月17日土曜日

刹那模糊模糊(せつなもこもこ)な時間の幅

 ところで近頃は、
量子論的には、〈プランク長さ〉である、
虚空模糊(こくうもこ)センチメートル以下の距離のことは、
物理的に不可知である。つまり、意味がなくなる。
というような話へとなっていったのでした。
〈プランク時間〉である、模糊模糊刹那(もこもこせつな)秒も、同様です。
こういうことを考えていると、
「大きさのない〈点〉を物理的に考えることは、まったく意味がない」
ように、しみじみと思われてくるのでした。

――唐突ですが 問い。
数直線は「この世」のどこかに、存在するのか?

というのは、それはたとえば、「物理的な大きさをもたない点」というのは、
「物理的な大きさをもたない点」であるがゆえに、物理的に「この世」に示すことができません。
というわけで、確認不可能という意味において、
「物理的な大きさをもたない点」は「この世」には〝存在しない〟のです。
――したがって、その点を形式的につなげた、直線で示される、
数直線は「〔形而上的〕あの世」に、存在するのでしょう。

 しかしながらも、
――どこにも存在しない「幅をもたない点としての瞬間」が持続することで「この世」が時間をもつ。
 たとえば、そのように語る哲学者というのは、「この世」の何を語ろうとしているのでしょうか。

 そういう「この世」のどこにも存在しない「時間的な大きさをもたない瞬間」が、何やら、「この世」に意味をもつような前提で、語られ続けるのです。
 せめて、「この世」にフィードバック可能な観念論を伝授してほしいのです。
 哲学的な話を哲学的に語ることに異論はありませんが、それが「形而上的」なだけであるとすると……
 せめて、地球人が生きている「この宇宙」の「この世界」の「この世」にかかわる話をしてほしいのです。
「あの世」の話ばかりでなく……

――そう願っていると、さいわいにも。

 何であれ「存在」するためには「持続」せねばならないのである。どんなに短命な素粒子であっても、とにかく「短い」と言いうる持続が必要なのである。その命がゼロ時間であるような「存在者」は論理的矛盾であろう。それはそうだろうが、だがしかし、ある持続はその中の点時刻、無限の数の点時刻を連続的に接続したものではないのか。そうだとすれば、そのどの点時刻にも存在しない物はその持続においても存在できないのではないか。こうしたいぶかりがでてこよう。
 だが、そうではない。持続というものは点時刻の集まりではないと思う。点とは実は線の切り口であるように、点時刻とは持続の「切り口」であって「部分」や「要素」ではないのである。だから、持続は点時刻が集まってできているものではない。物、例えばヨウカンの切り口にはヨウカンはない。だから切り口をいくら集めても一片のヨウカンもできない。ヨウカンあっての切り口であって切り口あってのヨウカンではない。それと同様、持続あっての切り口であってその逆ではないのである。そして「切る」とは常に「空を切る」こと、したがって持続する「存在」を点時刻で切れば空を切らざるをえない。
〔大森荘蔵『流れとよどみ』 (pp.107-108)

 ここにまさしく、その命がゼロ時間であるような「存在者」は論理的矛盾であろうと、語られていました。
 そして、先日来の資料では(繰り返せば)、
量子論的には、〈プランク時間〉以下は、不可知であり意味がなくなる、とありました。

 その、「この世」的意味をもつ最短の時間である〈プランク時間〉について。
 前回の、続きのような、はなしになりますが。

その幅がゼロでなければ、模糊模糊刹那の時間でも、
それが積み重なると、やがて 1 秒になります。
その〈プランク時間〉の、より正確な数値というのは、

〝 5.4 秒〟に〝 (10 の 44 乗) 分の 1 〟をかけたもの、でしたので、それは、
5.4 ÷ (10 の 44 乗) 秒、と同じになり、
それに「 (10 の 44 乗) である 載(さい)」をかけると、

5.4 ÷ (10 の 44 乗) × (10 の 44 乗) s = 5.4 s

となるのは、当然といえば、あたりまえな話になります。

その模糊模糊刹那を刹那模糊模糊と書いても、それは同じ意味となりますよって、
今後は、〈プランク時間〉を〈刹那模糊模糊 × 5.4 s 〉と表現することといたしましょう。
簡便には〈刹那模糊模糊秒〉という表記といたします。

 ここからは、長くなりそうなので、
――そういうわけで、次回に、
〈刹那模糊模糊秒〉をどれくらい折りたたむと 1 秒を超えるのか、計算してみたいと思います。

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