たとえば覚醒の瞬間は、それが生起するならば、眠りの時間が消滅してしまうように、全然異質なものである。……
それは眠りの時間の中でとらえようとしてもとらえられない「空洞」のようなもの、「数学的点」のようなものとなる。垂直に交叉する点である。
〔大木英夫 『終末論』第三章 (p.156) 〕
という表現が気になりました。
この例では、頭が悪すぎるのか、思いがけなくも、
「数学的点」 のようなもの
という哲学的に語られる、文学的な記述が、どうしてもよくわからないのです。
それが、「数学的点」 ならば、大きさをもたないので、別の何やらと交叉することが想定不可能となります。
しかし、「~~のようなもの」 であれば、必ずしもそのたとえと完全一致しているわけではないので、あるいは想定可能なのでしょうか。ならば、なぜにわざわざ「数学的点」などという、幾何学的な大きさをもたぬものが特に引き合いに出されるのでしょう。
それがさらにまた、ただの十字路ではなく、「垂直に交叉する点」 というのは、イメージ不能の極みとなります。
おそらくは、その一瞬の〝自分自身〟がイメージされていて、それが世界と直交する、というような感じなのでしょうけれども……、そして、〝異質な時間〟 というあたりはまた別の問題なのでしょう。
文学(芸術)として解釈する以外に、この頭の悪さでは、どうにも理解できないのです。
芸術であれば、そもそも「理解する」べきようなものではないでしょうし。
かくして、哲学的には、「一瞬の時間」の長さは、(時にときとして)あるいは、
「ほぼゼロ=ゼロ」とも、されていて、それは必ずしも数学的ではない気がします。
結局「無限大」も「無限小」も、その大きさは考慮されない、かのようなのです。
このような解釈になるのは、おそらくはこちらの頭が悪いせいだと思われるのですけれども、しかしながら、
不可知を語るそれは〝哲学的〟なのであり、純粋には〝数学的〟もしくは〝物理学的〟ではない。
――ということになれば、おそらくそういうものは〝観念論〟という解釈となっていきます。
すくなくとも、量子論的ではない。というのは、
量子論では、ゼロに近いことを、ではなく、ゼロではないこと、を重視するからです。
その違いは、およそ 10 (-43) 秒程度で大きくはないがゼロでもない。そしてゼロでないことこそが、まさしく時空における点の概念が正しくないことを意味している。
〔シャーン・マジッド「量子力学的な時間と空間、その物理的実在」『時間とは何か、空間とは何か』」 (p.52) 〕
一方、西田哲学では、
「現在は幅を有つと考へる」 とされています。
これは、数学的な微分の概念を取り入れた世界観でしょうか。
人間のみが瞬間を有つのである。普通に瞬間といふものは過去から未来へ亙る直線の一点と考へられて居る。併しさういふ瞬間は唯考へられたものに過ぎない。永遠の今の自己限定として時が考へられるといふ立場から云へば、現在は無限大なる円の弧線的意義を有つたものでなければならない。かかる弧線の極限として瞬間といふものが考へられるのである。故に我々は現在は幅を有つと考へる。人間はかかる弧線的存在でなければならない。
〔新版『西田幾多郎全集』第六巻「現実の世界の論理的構造」 (p.182) 〕
この(瞬間の)幅について、以下に示すページで計算してみているのですが、「プランク時間」の長さも含めて、次回に改めて考えてみたいと思います。
〈弁証法的一般者〉
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/dialectical.html
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