2016年9月11日日曜日

宇宙論ではなくして観念論として

 前々回(9月6日)から、パスカルの 〝無限の球体〟 について、みています。それは 「空間」 のことでした。もう一度、そこを引用しておきましょう。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である。

 それに次いで前回(9月9日)に、西田幾多郎の 〝無限大の円〟 についてみました。それは 「絶対無の自覚的限定」 の幾何学的表現であり、それに続く記述では 神の自覚なくしては不可能である とされるものでした。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球に喩へて居るが、絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる(パスカルの如く球と考へるのが適当かも知れないが私は今簡単に円と考へて置く)。

 パスカルの思想の前提には《神》があるのですが、西田哲学においても同様であることが、そのあたりを比較してみて、うかがえました。
 つまり、「西田哲学の前提には神がある」と、推測されるのです。
 引用文として参照した、この昭和 6 年の論文「永遠の今の自己限定」以降、〈永遠の今〉はくり返し、語られ続けます。その西田哲学における〈永遠〉とか〈無限〉の前提には、「神」があったと、思われるのです。パスカルのこの記述についても、また同様に、改めて何度か言及されています。
 新版『西田幾多郎全集』第六巻の「注解」は、小坂国継氏が担当されていて、「私と世界」の注解ではパスカルからの引用文が記述されています。

(8) 「われわれは想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思いを拡大したところでむだである。事物の現実に較べれば、われわれはアトムを生み出すにすぎない。事物の現実は、至るところに中心があり周辺がどこにもない無限の球体である」(パスカル『パンセ』ブランシュヴィック版)、一九七六年(初版一九二六年)、断章七二)。 
新版『西田幾多郎全集』第六巻 注解「私と世界」 (p.358)


 宇宙は、アインシュタイン以後、有限な事象となりました。そこで〈無限〉を語るには、どうしても、超越者の存在が必要であったのかもしれません。いうなれば「周辺なくして到る所が中心となる無限大の円」としての〈場所〉が……。

 ところが、前々々回(9月3日)に確認したことをさらに思い起こすとすれば。
 アインシュタインの「静止宇宙」モデルはすでに、「周辺なくして到る所が中心となる有限の円の表面」と、たとえられる特徴を 1917 年には獲得していたのです。

 以上、今月になってから考察してきた内容を、改めて、概観してみました。
 今回それに加えるなら、西田幾多郎が、自身の世界観を次のように述べている箇所でしょうか。

個物と個物とが相限定する此の世界の根柢に、何等かの意味に於て述語面的自己同一といふものを置いて考へれば、種々なる意味に於ての観念論的世界観といふものが成立する。
新版『西田幾多郎全集』第六巻「形而上学序論」 (p.51)

→ わたしとあなたの「あいだ」
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/identity.html

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