2016年9月9日金曜日

延々と今

 前回見たように、パスカルは、
「それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である」
と、書き残しました。『パンセ』というのは、パスカルが残した「断片」を集めた遺稿集です。

 西田幾多郎はそれを引用して、次のように記述します。

パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球 une sphère infinie dont le centre est partout, la circonférence nulle part に喩へて居る (6) が、絶対無の自覚的限定といふのは周辺なくして到る所が中心となる無限大の円と考へることができる(パスカルの如く球と考へるのが適当かも知れないが私は今簡単に円と考へて置く)。之によつて之に於て到る所に無にして自己自身を限定する円が限定せられると考へることができるのである。
 (6)  パスカル『パンセ』(ブランシュヴィック版)、断章七二。
新版『西田幾多郎全集』第五巻「永遠の今の自己限定」 (p.148)

 もう一度 『パンセ』の和訳 本文から、今度は前回(9月6日)と同じ長さで、引用してみます。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である。

 どうやら、パスカルは、
「それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である」
という、その対象を、「空間」 のこととしているようです。
 つまり、パスカルが語っているのは、《神》ではなく〈宇宙〉の大きさのことと思われます。
 パスカルの言葉に、《神》の概念が含まれていないかといえば、含まれているとも、いえましょう。
 が、それは、『パンセ』断章の文脈から、各自により判断されるべきことがらとも、思われます。
 原文はよくわからないのですが、引用した和訳が該当箇所であるとすると、「神」の記述はそこにはないことになります(直後にはあります)。
 少なくとも、その引用文の箇所だけからは、《神》は間接的にしか、現れてきません。
 すなわち、無限を創造した、超越者として……。
 また、西田幾多郎自身の文脈からしても、それが《神》である必要はなく、〈宇宙〉あるいは〈世界〉のことであっても、特に問題はなさそうなのですが、
「パスカルは神を周辺なくして到る所に中心を有つ無限大の球」にたとえている
と、書いてしまったのですね。
 ですが、そういう「幾何学的神」の表現を、パスカルはどう考えていたのでしょうか。

――いずれにせよ。
 パスカルと同様に、西田幾多郎も、世界に《神》の影を見ていたと推測できます。
 しかしながら、「永遠の今の自己限定」 の 〈永遠の今〉 は、有限な宇宙では、「永遠」 に続くはずもなく、物理的な話ではなくなってしまいますので、これは哲学的 「形而上学的考察」 なのである、と、しておきましょう。
 あえていうならば、〈延々の今〉であれば、かろうじて現実にかかわってくるとも、主張できるかもしれません……。


無限:永遠の今
http://theendoftakechan.web.fc2.com/atDawn/transcend/infinity.html

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