2016年9月6日火曜日

永遠と無限

 パスカル 『パンセ』 七二 (一九九)
を参照すれば、次のように書いてあります。

われわれが想像しうるかぎりの空間のかなたに、われわれの思考を拡大しても無益である。われわれの生みだすものは、事物の現実にくらべるならば、たんなる微分子にすぎない。それはその中心をいたるところに持ち、その周辺をどこにも持たない無限の球体である(2)
 (2)  このことばをアヴェはエムペドクレスに帰している。パスカルはそれをモンテーニュの『エセー』中のグルネの序言で読んだのであろうという。 
〔由木康訳 『パンセ』 (p.34,40) 1990年11月20日 白水社発行〕

 前回(9月3日に)書いたように、アインシュタイン以来、宇宙はどうやら有限であろうということに、なったらしいのですが、パスカルの時代は、そうではなく、宇宙も神も無限を基本としていたのです。
 そのことは、現代にも、哲学的には、受け継がれているようです。
 でも、歴史的時間的にも限りある宇宙の中で、永遠や無限を想定して語ることに、どのような結末が求められているのでしょうか。
 そういうわけで、以下は、ただの独語(ひとりごと)として……

オン・ザ・ロード


 ぼくたちはいつだって、道の途中を生きている。
 だからいつだって、〈いま〉の上で歩み続ける。
 いま、ここで、何かが問われる。
 だけどそれは、永遠にくり返されるわけじゃない。
 ぼくたちが限りあるのは、つまり、宇宙が有限だからなのだろう。
 それでも、無限に生きたいひとたちはそう生きればいい。

0 件のコメント:

コメントを投稿