2017年9月30日土曜日

〈ハンディキャップ原理〉と〈信号選択〉の理論

〈ハンディキャップ原理 (handicap principle) は、あたらしく、
〈信号選択 (signal selection) の概念をもたらした、という話。
 そこから、捕食者に対してメッセージを駆使する、生き物の実態がかいま見えてくる。

そもそも、アモツ・ザハヴィの提唱した〈ハンディキャップ原理〉は、
当初かなり評判が悪かったけれど、
1990 年にアラン・グラーフェンの二編の論文が発表され、
そこで数理モデルを使ったグラーフェンは、ハンディキャップの原理が一般的に適用できるものであり、競合する生き物のあいだのコミュニケーションの信憑性を保証できるまっとうな法則であることを示したのだという。
〔アモツ・ザハヴィ&アヴィシャグ・ザハヴィ/著『生物進化とハンディキャップ原理』大貫昌子/訳 (p.9)

参考文献を参照すると、ザハヴィによる〈ハンディキャップ (handicap) 〉をタイトルに含んだ論文は、1975 年に発表されている。
1977 年には “The cost of honesty (further remarks on the handicap principle).” というタイトルの論文がある。
―― どうやら 1977 年が、〈ハンディキャップ原理〉の提出された年であるらしい。
ちなみに、一般向けの解説書である『生物進化とハンディキャップ原理 (The Handicap Principle) 』は、原著が 1997 年に、日本語版は 2001 年に刊行されている。日本語版に「解説」を寄せた長谷川眞理子教授は、自著でザハヴィについてのエピソードを紹介していて、そのなかに次のようなものがあった。

ザハヴィという人はおもしろい人で、ハンディキャップ説をきいた学者が、その考えをあざ笑い、もしそんなことがあるならば、どうして世の中はもっと、足が一本だけの動物や目が一つしかない動物で満ち満ちていないのだ、という感想をもらしたところ、「そのとおり、現にわが国の国防大臣は片目ではないか」と答えたというのは有名な話です。当時のイスラエルの国防大臣は、黒い海賊眼帯をした片目の人でした。
〔長谷川眞理子『クジャクの雄はなぜ美しい?』〈増補改訂版〉 (p.98)

ザハヴィに感想をもらした学者というのは、『利己的な遺伝子』を書いたリチャード・ドーキンスで、その有名な本のなかに、自身で、該当のエピソードを語っている。

 私はザハヴィの理論を信じていない。もっとも、私の懐疑に対しては、私自身、初めてこの理論を聞いたときほど確固たる自信をもっているわけではない。この理論を聞いたとき、私は、その考えをつきつめると、脚も一本、眼も一つしかないような雄が進化すべきだということにならないかと指摘した。イスラエル出身のザハヴィは即座に答えてこういったのだ。「わが国最良の将軍の一人は片眼です」。しかし、ハンディキャップ理論に、根本的な矛盾が含まれているようにみえるという問題は依然として残されている。もしハンディキャップが本物であれば ―― 理論の本質上ハンディキャップは本物でなければ困るわけだが ―― それは、雌にとって魅力となりうるのと同じ確実さで子孫に対しては不利をもたらしうるはずだからである。いずれにせよ、そのハンディキャップが娘には伝わらないようにすることが肝心である。
〔リチャード・ドーキンス/著『利己的な遺伝子』〈増補新装版〉 (pp.243-244)

―― ドーキンスの『利己的な遺伝子』初版は、1976 年に発行されている。
 最新の理論に対して、かなりの反論を展開していたのだ、といういきさつがここで知れる。
1989 年に、その〈新版〉が刊行された際には、今度も、かなりの注釈を書き加えて、修正をためらわない姿勢を見せた。

 本書の初版で私は「私はザハヴィの理論を信じていない。もっとも、私の疑惑に対しては、私自身、初めてこの理論を聞いたときほど確固たる自信をもっているわけではない」と書いた。そこに「もっとも」と書き加えておいたのは良かった。当時にくらべ、ザハヴィの理論ははるかにもっともらしいと思われるようになったからである。最近、有名な理論家たちの一部も彼の理論を真剣に検討しはじめた。もっとも困った事態は、私の同僚のアラン・グラフェンもその一人であるということだ。…… 彼はザハヴィの言語モデルを数学的なモデルに翻訳し、妥当性あり、と宣言したのだ。…… ここではグラフェンがはじめにまとめた ESS 型のモデルを紹介する。グラフェンは目下、全面的に遺伝的なモデルを研究中であり、それは ESS 型のモデルよりすぐれた点があるはずである。しかしこれは ESS モデルが誤りだということではない。ESS モデルはよい近似である。…… すべての ESS モデルは同じ意味において近似である。
〔『利己的な遺伝子』〈増補新装版〉 (pp.476-477)

このあとに、グラフェンの、最新理論が、数式なしで、紹介されるのである。
そして結論として、次のように書き記したのは、繰り返すが、1989 年のことなのだ。
―― 今回の冒頭に引用したザハヴィの文などから、グラフェンの正式な論文は、1990 年に発表されていることが、ここで想起され。
『利己的な遺伝子』〈増補新装版〉巻末にあった参考文献のページで確認すると、
80. GRAFEN, A. (forthcoming). Sexual selection unhandicapped by the Fisher process. Manuscript in preparation.
と、記載があった。

 グラフェンが正しければ(私は正しいと思う)、その結論は動物界における信号の研究全体に非常に重要な意義をもつ。…… もし正しければ、ザハヴィ-グラフェン理論は、同性のライバル個体間、親子間、敵対する異種個体間の関係に関する生物学者たちの見解に逆転的な転換をもたらすことになるだろう。この見通しはまことに困ったことである。そうなってしまえば、ほとんど限りなく奇妙奇天烈な諸理論も、常識に反するという基準で拒否するわけにはいかなくなるからだ。たとえばライオンから逃げるかわりに逆立ちをするなどという真実ばかげた行動をする動物を観察したとしても、それは雌に見せびらかすための行為なのかもしれないのである。それどころかその行為はライオンそのものへの宣伝かもしれない。…………。
 ある事態が私たちにどれほど奇怪奇天烈に見えても、自然淘汰は別の見方をしているかもしれない。よだれをたらして近づく捕食者の群れに直面した動物は、そうすることによる危険度の増加より、その危険条件下での宣伝効果のほうが大きければ、バック宙返りをくりかえす、などということになるかもしれない。…… 危険に満ちコストの高いふるまいは私たちには無謀に見えるかもしれない。しかし本当に問題なのは私たちの感想ではない。判断する資格のあるのは自然淘汰だけなのだ。
〔『利己的な遺伝子』〈増補新装版〉 (pp.482-483)

―― だから。
人間の都合ばかりで自然を解釈すると、そこにあるメッセージに気づけなくなる。
自分の都合ばかりで理論を構成すると、誤まったメッセージを修正できなくなる。

 ザハヴィは 1981 年に “Natural selection, sexual selection and the selection of signals.” という論文を発表している。自然選択に、信号による選択を加えたのだった。
 生物はメッセージをやり取りして共進化している。
 用語的な体裁の〈信号選択 (signal selection) 〉をタイトルに含む論文を発表したのは、1987 年のことだ。
文献 : Zahavi, A. 1987. The theory of signal selection and some of its implications. In Proc. Intern. Symp. Biol. Evol., ed. V.P. Delfino, pp. 305-27. Bari, Italy: Adriatica Editrica.

 被食者と捕食者は互いに信頼できる信号を共有していて、そのことが、捕食者の効率的なハンティングにつながるという。
 ザハヴィは、そういう信号のやり取りによる〈自然選択〉のもたらす進化を〈信号選択〉と位置づける理論にいたった。
 信号というのは、〝送り手が受け手を操る〟意図をもつ。受信者が信用しなかったり無視したりする信号は、信号としては役に立たない。生き物が発信する信号には、操作の手段として効果的なものが多く含まれる。
 信号はその意味が、だから、相互で完全に共有されている必要がある。
 そういう信号が進化したのだ。つまり遺伝子に刻まれた。
 健康優良体は、捕食者にアピールすることで、ほかの弱った獲物を探すように仕向けることができる、らしい。
 現実にそういう観察結果が、研究として、発表されている。

 ザハヴィの〈信号選択〉の概念は、ドーキンスの〈延長された表現型〉の議論に通じるものがあるようだ、とここで気づく。
 メッセージという〈表現型〉の効果について、実は両者は同じことを、別の言い方でいっているのではなかろうか?
 ドーキンスの『延長された表現型 (The Extended Phenotype) 』が出版されたのは、1982 年のことで、日本語版発行は 1987 年だ。その後『利己的な遺伝子』〈新版〉で追加された二章のうち「13 遺伝子の長い腕」は、『延長された表現型』の圧縮版として執筆されている。
 その 13 章でまず語られているのは、「いくつかの特定の遺伝子の表現型効果」についてだ。
 〈延長された表現型〉というのは、ほかの生き物への操作を含む。
「自然淘汰は、遺伝子そのものの性質のゆえではなく、その帰結 ―― その表現型効果 ―― のゆえに、ある遺伝子を他の遺伝子よりも優遇する。」
〔『利己的な遺伝子』〈増補新装版〉 (p.366)

 生物進化におけるメッセージの重要性は、人間の〝情報社会〟で新しく始まったような目新しいものではなかったらしい。メッセージのやり取りは人間特有のものですらない。
 それはまさに祖先たちが生死を賭けて身につけた〝情報伝達〟の手段であり、作業であり、行為なのだ。
 ダーウィンが〈雌雄選択〉と呼んだ性淘汰の理論も〈信号選択〉で解釈可能だ。
 健康優良体のオスは、それを正直にメスにアピールすることで、自分を選ぶように仕向けているのだ。
 ザハヴィは、質実剛健とは言い難いフィッシャーの〈ランナウェイ・プロセス〉を否定する。
 フィッシャーの理論では、メスにアピールすることはできても、ライバルを排除する効果は不明で、語りようがない。
 悪循環の、八方ふさがりな〈暴走過程〉は、弱点を露呈する。
 だから、みせかけでない、ほんとうのオスこそが、栄えるのだ、とザハヴィはいう。

0 件のコメント:

コメントを投稿