突然の変異も、あまりに気宇壮大(きうそうだい)では、命が続かない。
だから進化論では、進化は漸進的(ぜんしんてき)なのだという。
漸進 ―― というのは、しだいしだいに、進んでいくようすを示す。
話し言葉だと「漸進する」というのが「前進する」に聞こえる。
前進、となれば、進化に進歩の意味が反映されよう。
じつはそれもあながち、間違いではなさそうだ。
きっと、環境の変動なんかに対応する漸進的な進化では、その変化は、特に前進とはいえないだろう。
環境は揺れ動くから。生き延びるために、一定方向への進化で、良しとするわけにはいかない。
眼も、不要になれば退化する。
ここで、気づかされる。
環境への適応では、生存技術も特定の方向性を持続しつつ、進歩したわけではなかろうけど、天敵への対応ではどうだろう、かと。
おそらく、天敵から逃れるための技術は、特定の方向への進化になるだろう。敵も、適応して、進化するからだ。
そういうわけだからドーキンスは、天敵などと共進化する際には、進化は進歩といってかまわないと論じる。
共進化というのは、正のフィードバックが働く進化のことだ。軍拡競争ともいわれる。
「人間至上主義と進化的な進歩」と題された文章から引用する。
進歩的な進化は短期的あるいは中期的にしか存在を予測できないことを強調しておくのが重要である。共進化的な軍拡競争は何百万年も続くかもしれないが、おそらく何億年とは続かないだろう。非常に長いタイムスケールをとれば、小惑星その他の天変地異が進化を完全に停止させ、主要な分類群とその適応放散全体を絶滅させてしまうだろう。…… こうした順次起こる個別の軍拡競争は、私の感覚での進歩的な一連の進化の原動力となる。しかし、地球規模で見て数億年にわたる進歩というものはなく、絶滅によって終止符を打たれるノコギリの歯形のような小さな進歩の連続があるだけである。にもかかわらず、それぞれのノコギリの歯の斜めに上昇する時期は、正しくかつ明白に進歩的なのである。
〔リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』 5 章「トスカナの隊列でさえ」より (pp.377-378) 〕
タイトルに「人間至上主義 ……」とあるように、進歩的な進化を認めたがらない考え方は、あまりに人間至上主義に染まっている可能性が示唆される。
進歩を、頭の良さとか、複雑さなどの、人間の特性を中心に考えると、それが進歩の課題のように思えてくる、という視点から、抜けられなくなる。
けれども ――。鳥にとっては、空を飛ぶことが、進化であり、進歩だったろう。
毒蛇にとっては、より強力な毒性をそなえることが進歩だったろう。
進化にも、ある種の進歩でなければならない場面があるのだ。
捕食者と被捕食者(被食者)が共進化するとき、そこに、進歩がなければ進化は終わる。
だから特定の方向性をもった進化については、進歩だと、いえることもあろう、と。
やっと、そのことに気づくことができる。
でも、変化は、結果なのであって、努力の賜物でもない。
たまたまそういう変異を手に入れ発現したものが、優位に立っただけだ。
努力の賜物が遺伝されることを、獲得形質の遺伝という。
これはラマルク説といわれるが、ダーウィンの進化論は、このことを認めていた。
メンデルの遺伝学でそれは否定されて、〈進化の総合学説〉が新しい進化論となった。
ネオ・ダーウィン主義 ―― ネオ・ダーウィニズムといわれる。
漸進(ぜんしん)する進化
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/Gould.html
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