2017年9月11日月曜日

ネオテニー(幼形化)という 進化形態のこと

 前回引用したグールドの著作は、第一部の終わり近くにこう記されていました。

幼形進化は、遍在する促進の「退化的な例外」ではないのである。変形発生は、本質的には原形発生的な発生の「二次的な変造」ではないのである。かくも長く、例外として忘却の淵に沈んでいた事実が、メンデル遺伝学の発見によって正統という座へと浮上したのである。
〔スティーヴン・J・グールド著『個体発生と系統発生』 (p.299)

 この原著は 1977 年に、日本語版は 1987 年に発行されました。
 第二部「異時性と幼形進化」が本論となるもようで、その幼形進化に関してドーキンスが触れている文章がありましたので……紹介がてら云々

 ネオテニー neoteny
 幼形成熟ともいう。体細胞的な発育の遅滞によって生ずる幼形進化(幼形化)。
〔『個体発生と系統発生』の用語解説から引用〕

 2002 年 5 月に再発した癌のためグールドは他界しました。
 ドーキンスはかけがえのない戦友を失ったのだともいわれます。
 2002 年の「ダーウィンの『人間の由来』の新しい学生版に寄せた序文」で、ドーキンスは次のように書いています。
 エッセイ集〔の第 2 章〕に収録されて、こちらの原著は 2004 年に発行されました(邦訳も同年)。

類人猿は、オタマジャクシやチョウの幼虫のようにはっきりとした幼生段階をもっていないが、人類進化においては、より漸進的な形のネオテニーを認めることができる。赤ん坊のチンパンジーは、大人のチンパンジーよりもはるかに人間によく似ている。人類進化は幼児化と見ることができる。私たちは、形態的にはまだ幼児なのにもかかわらず性的に成熟してしまった類人猿なのである (50) 。もし人間が二〇〇歳まで生きることができたとしたら、最終的に四足歩行し、巨大なチンパンジーのように突き出た顎をもつように「成長する」のだろうか? 風刺小説家、とくに『幾夏をへて』のオルダス・ハクスリーは、その可能性をまだ残している。彼はおそらく、この概念の創始者の一人で、実際にアホロートルにホルモンを注射して、それまでけっして見られなかったサンショウウオに変態させるという驚くべき実験をおこなった兄のジュリアンから、ネオテニーについて学んだのであろう。
 50 S. J. Gould, Ontogeny and Phylogeny (Harvard University Press, 1977).『個体発生と系統発生:進化の観念史と発生学の最前線』仁木帝都・渡辺政隆訳、工作舎 (1987)
〔リチャード・ドーキンス著『悪魔に仕える牧師』垂水雄二訳 2004年 早川書房刊 (p.138)

 同著の後半にグールドへの追悼文が、第 5 章「トスカナの隊列さえ」として捧げられており、章の最後には、未完となったメールのやり取りが公開され、まとめの一文をもって、第 5 章は締めくくられています。―― その一文から。

スティーヴが私に劣らずネオ・ダーウィン主義者であったことを考えれば、私たちは何について言い争っていたのだろう? 大きな意見の不一致は、彼の最後の本『進化理論の構造 (135) 』にはっきりと現れている。私はこの本を彼が亡くなるまで見る機会がなかった。~~。論争の的[まと]となる問いは、次のようなものである。すなわち、進化における遺伝子の役割はいかなるものであるか? グールドの表現を使えば、それは「帳簿係りか因果律か?」。
 グールドは、自然淘汰が、生命の階層構造のさまざまなレベルではたらくものとみなしている。…… 生物学的な自然淘汰は、それをいかなるレベルで理解しようとも、それが遺伝子プールの遺伝子頻度に変化を生じさせるかぎりにおいてのみ、結果として進化的な影響をもたらすことができる。けれどもグールドは、遺伝子を、ほかのレベルで進行中の変化を受動的に跡づけていく「帳簿係り」としか見ない。私の意見では、遺伝子がほかの何であるにせよ、帳簿係り以上のものであるに違いなく、それがなければ、自然淘汰は機能しえないのである。もし遺伝的な変化が、体に、あるいは少なくとも自然淘汰が「見る」ことができる何かに、因果的な影響をまったく及ぼさないのであれば、自然淘汰はそれを選り好みすることも排斥することもできない。結果としていかなる進化的な変化も生じないであろう。
 135 S. J. Gould, The Structure of Evolutionary Theory (Harvard University Press, 2002).
〔同上「あるダーウィン主義の重鎮との未完のやりとり」 (pp.390-391)

 かくのごとくに ――。
 正当に、自論を展開することこそが、死者への最大の敬愛を示す弔辞だったのでしょう。
 彼らは相互に、相手の理論の不具合を指摘し合い、精錬させていく論敵同士だった、とする見解については先にも紹介しました。
 ドーキンスはかけがえのない戦友を失った……。
 ドーキンスは、亡き戦友に真理を追究するための次なる言葉を捧げたのだ。返答は得られない。彼はまさに、激情を秘めた、科学の申し子だったといえましょう。

 第 1 章に収録された「何が真実か」(初出 2000 年)と題した文章で述べられている。
 科学とは、ただの個人的な信仰や信念ではなく、
科学は結果を出せる」〔同上 (p.34)ものであり、それによって、
その主張を真理に押し上げることができる」〔同上 (p.35)ものなのだ、と。

0 件のコメント:

コメントを投稿