その後の半世紀にわたって、〈熱〉が〈エネルギー〉じゃなく〈物質〉だという考えは、権威筋の信じるところとなります。
――と、前回の最後に書いたあたりを、もう少し詳しく調べようとして、種々に難渋しております。
時は、18 世紀末( 1700 年代)、ラボアジエの残した〈熱素(カロリック)〉説は、世紀をまたいでフランスへの呪縛となったわけです。
1783 年に、ラボアジエはラプラスと共同研究を発表しました。
1789 年の著書 『化学原論』 では、〈熱素 (calorique) 〉が、元素とされています。
1789 年にフランス革命が勃発、1794 年、ラボアジエはギロチンで処刑されます。
「熱素」は 『広辞苑』 の旧版 には、後半部が次のように記されています。
一七九八年、ランフォード (Rumford 1753~1814) の実験はこれを否定したが、熱素説はその後半世紀生きのびた。
ところが、その後の最新版では次のような記述となり、〈熱素〉はあたかも、19 世紀を待たずして、命運尽きたかのような印象さえ与えられます。
ねっそ【熱素】
(caloric) 熱を一種の元素と考えて、ラヴォアジエがつけた名。物体の温度変化は、物体内の熱素の多少によって起こるとされた。一七九八年、ランフォードの実験で否定された。
〔『広辞苑』 第六版 (p.2174) 〕
ここはひとつ、〈熱素〉説が 19 世紀初頭のヨーロッパを惑わしたのは、もはや「言うまでもない」こととして、省略されたのでしょうか? それともところによっては、ランフォードが渡した引導で、〈熱素〉は大往生したのでしょうか?
――〈熱素〉が成仏したのはいつなのか。それとも未だ亡霊となって、世界を惑わし続けているのか。
手がつけられない状況となっているという噂の〝将門の首塚〟伝説を思い出してしまいました。
そうしてようようにして、先だっても参照した資料をあらためて繙くほどに、次のような文章に巡りあうことができたのでございます。
読めば、ランフォードの実験により「こうして熱のカロリック説は葬られた。」と、125 ページには、書かれていました。
読むほどに、その後の事情として――。
一八〇四年にランフォードはロンドンからパリへ移り住んだ。当時イギリスとフランスとは交戦状態にあり、フランスはイギリスへの侵入を企てていた。ランフォードたちの研究にもかかわらず、有名な化学者アントワーヌ・ラボアジエ(一七四三~一七九四)を中心とするフランスの科学者たちは、熱のカロリック説を信じていた。彼らを説得することもまた、ランフォードがパリへ移り住んだ一つの理由である。
………… そのラボアジエの未亡人と、ランフォードは一八〇五年に結婚した。
〔竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (p.130) 〕
一八四七年にヘルムホルツは、「力の保存について」と題する論文をベルリン物理学会で講演した。それは「エネルギー保存の法則」を主張する、一九世紀における画期的な論文の一つであった。
これより先の一八四〇年に、ドイツの医者で物理学者のロベルト・マイアー(一八一四~一八七八)が、熱がそれまで考えられていたような「実体」ではなく、「作用」ではないかと主張する論文をある雑誌に発表しようとした。
当時はまだ、熱は《カロリック》という名の実体であると考えられていた。しかしドイツで医学を修めたのち、ジャワ連絡の船の船医となったマイアーは、船員たちの静脈の血がまるで動脈の血のように赤いことに気づいた。これは暑い熱帯を旅行する人によく見られる現象であった。そもそも動脈の血が赤いのは、酸化作用によるものである。したがって熱と酸化作用との間には関係があり、これは熱が作用であることを示すものではないか、とマイアーは論文で主張したのである。
作用をエネルギーと考えれば、これはまことに正しい主張であった。しかしそのときには、こんな奇妙な論文は困ると、雑誌への掲載を断られたのである。
〔竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (pp.183-184) 〕
どうやらラボアジエの死後ほどなくして 18 世紀末には、イギリスのロンドン王立協会の周辺で、「熱のカロリック説は葬られた」のですが、大陸側の趨勢(すうせい)は、それをたやすくは認めなかったということなのでしょう。
アメリカの独立に、フランスが加担したという事情なども絡んでいたでしょうか。
その頃の、イギリスとフランスの関係は「交戦状態」だったようですし……。
ラボアジエの未亡人と、ランフォードは、結婚の四年後には、離婚したようです。
0 件のコメント:
コメントを投稿