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経済学者のケインズは、1946 年英国ケンブリッジ大学の
「ニュートン 300 年祭」における講演で、並みいる学生たちを前に、こう語りました。
「ニュートンは理性の時代に属する最初の人ではなかった。彼は最後の魔術師であり、最後のバビロニア人でまたスーメル人であり、一万年には少し足りない昔にわれわれの知的遺産を築き始めた人たちと同じような目で、可視的および知的世界を眺めた最後の偉大な人物であった。」
〔J.M.ケインズ「人間ニュートン」『人物評伝』 316 ページ〕
かつて(2015年11月12日木曜日)「ニュートン 〈最後の魔術師〉」と題したものの冒頭です。
それでというか今回、最後の〈自然哲学者〉として少々まとめてみました。
ヒューエル (1794~1866) が、“scientist” という単語を発明したのは、
そのニュートン力学の直系であることを自認する
ラプラス (1749~1827) が死去した後の、
1834 年のこととされています。
当時は、聞きなれぬ新しい言葉に対し、その評判はかんばしくなかったようです。
「ファラデーは終生自分のことを、科学者=サイエンティストとは呼ばなかった。」
「サイエンティストなる厄介な命名は、ときの自然学者の猛反対に遭遇し、一九一〇年ころまでは「科学する人」(a man of science)という呼称の方が一般的であった。たとえばオクスフォード英語辞典の一九一四年までの版の扉頁には、サイエンティストではなくマン・オヴ・サイエンスの方が採用されていた。」
〔井山弘幸『偶然の科学誌』 (p.196, p.197) 〕
では、その頃、現在では一流の科学者と見なされているファラデーは、何者であったか、
――と問うなら、一般的な呼称としては〈哲学者〉もしくは〈自然哲学者〉だったでしょう。
あるいは、より専門的には〈物理学者〉であったかも知れません。
ノーベル賞を受賞したプリゴジンは、スタンジェールとの共著でこう述べています。
「ニュートン的科学への挑戦は、フーリエが熱伝導を支配する法則を定式化したときに始まる。それは実際、古典力学では捉えることのできないもの、不可逆過程を、定量的に記述した最初の例であった。」
「 「複雑性の科学」の誕生した日付を、筆者はイゼール県知事ジャン=ジョセフ・フーリエ男爵が固体中の熱伝導の数学的記述によってフランス科学アカデミーの賞を得た一八一一年とすることを提案したい。」
「フーリエは、ラプラスの学派がヨーロッパ科学を支配していたときに、彼の結果を定式化した。ラプラスやラグランジュやその弟子たちは協力してフーリエの理論を批判しようとしたが、退散せざるをえなかった。ラプラスの夢は、その栄光の頂点で最初の挫折を経験した。運動の力学法則と同程度に、あらゆる点で数学的に厳密であり、しかもニュートン的世界とは完全に異質な、新たな物理学理論が創造された。このとき以来、数学・物理学・ニュートン的科学の三者は、同義語ではなくなった。」
〔『混沌からの秩序』伏見康治(他)訳 (p.47, p.158, p.159) 〕
ここで「複雑性の科学」といわれるのは、新しい「熱力学」の研究対象となるものです。
いずれにせよ、偶然の一致でも、「物理学」が「ニュートン力学」とまったく同じではなくなった時代に、新しい時代の〈科学者〉が提唱されたことになります。
そのヒューエルの提唱のしばらく後――。
1850 年には、クラウジウスの「熱は必ず高温物体から低温物体へ移動する」という原理が発表されることになります。
その当時、ニュートン力学の正統な後裔であったラプラスは、〝最後の〈自然哲学者〉〟のひとりとして死んだといっても、無理はなさそうです。
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