2017年2月18日土曜日

ケルビン卿:古典物理学の曳光

 同じ時代、英国スコットランドに、マクスウェルとトムソンは生きていた。
 ふたりとも、十代で論文を発表する、早熟な天才だったという共通点をもつ。
 1831 年、マクスウェルは、スコットランドのエディンバラで生まれた。
 1824 年に生まれたトムソンは、その 7 歳年上だが、24 年後、カルノーの原論文を再発見したトムソンはつまり、カルノーのその著書出版と同じ年に誕生したという巡り合わせになる。

――ここで訂正事項がありまして―― 先日(2月4日)の文中に、
「スコットランド人ウィリアム・トムソン――後のケルビン卿」と書いてしまったのですが、
次の資料に見るように、トムソンは、北アイルランド生まれでした。

 ケルビン卿、すなわちウィリアム・トムソンは一八二四年に北アイルランドのベルファストで生まれた。現在もアイルランド島の大部分はアイルランド共和国に属するけれども、北の一部はイギリスに属する。トムソンはここで生まれたのである。七歳のときに一家はスコットランドのグラスゴーへ移住した。父はグラスゴー大学の数学教授であった。彼には四男二女があり、ウィリアムは次男で、二つちがいのジェームズという兄があった。
 この兄は手先が器用で、機械をつくるのを好んだ。兄弟は協同してボートをつくり、「聖パトリック号」という名をつけた。聖パトリックは五世紀にアイルランドへキリスト教(カトリック)をもたらした聖人であり、アイルランドの守護聖者であった。ボートにこういう名をつけることによって、彼らはアイルランド人としての心意気を示したことになる。
竹内均/編『物理学はこうして創られた』 (p.234)

 ケンブリッジ大学を卒業したトムソンがパリに留学したのは、1845 年のことだ。そこでカルノー論文を知り、1848 年にはカルノー関数から絶対温度を定義する。
 1850 年代には、熱力学第二法則の定式化に取り組み、〝地球の熱的死〟を予言したと評判になった。
 1852 年の論文『力学的エネルギーの散逸に向かう自然の普遍的傾向について』の結論がそうだという。

――やがて、トムソンは自然哲学に《神》を復活させることになる。
 1859 年というのは、日本では、小漁村だった横浜に外国向けの港ができた年だ。その前年に、「日米修好通商条約」が結ばれたのだ。
 その 1859 年にダーウィンの『種の起原』が刊行された。トムソンはこの「進化論」に対して〝科学的〟に反論する。
――〝熱〟に基づく計算によればその冷却期間から「地球の年齢は 1 億年程度」であるからして、《神》による知的デザインを無視した〝自然選択説〟など、言語道断なのである。
 20 世紀になって、ラザフォードが新しい〝熱源〟である〈放射性物質〉を示しても、サー・トムソンの言語道断な意思はくつがえらなかった。
 ジュールの実験にただひとり拍手を送った 1847 年とは、すでに、彼の年齢という事情が違っていた。
 彼もいつしか、新しい科学的知見に対応できなくなっていたのか。

 1879 年、マクスウェルは胃がんで死んだ。48 歳だった。
 サー・トムソンは、1892 年にケルビン男爵となっていた。そしてアインシュタインの相対性理論が発表された 2 年後に死んだ。
 1907 年のことだ。――ロンドンのウェストミンスター寺院の、ニュートンの隣に、ケルビンの墓碑がある。
 古典物理学の時代の輝ける残照が、またひとつ消えた。
 マクスウェルは、有名な魔物に、ケルビンは絶対零度(絶対温度 K )に、その名を残した。
 そういえば、ケルビンは、日本からも勲章をもらっているそうだ。
 1901 年に「勲一等瑞宝章」を受勲したのだという。


マクスウェル と ケルビン
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/Kelvin.html

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