捕鯨船の寄港地にしたいのだという。なぜに日本を中国までの間の寄港地に……?
幕府は、その要求をつっぱねた。
1853 年 6 月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、今度は軍艦 4 隻とともに、浦賀沖に現れた。
ペリーは予定通りに「また来る」とアメリカン・イングリッシュで言うと、すぐさま、パワーアップして戻ってきた。それはその頃からの、定番の慣用句であったろうか。
1854 年 1 月、ペリー提督は、軍艦 7 隻とともに、ふたたび来航した。
日本史では、それぞれの年は、嘉永六年、安政元年となっている。
さて。言うまでもなく、といったら、通常これから言うに決まっているが、
「喜撰」は平安初期の歌人で、六歌仙のひとり、喜撰法師のことなのだが、
「上喜撰(じょうきせん)」となれば、お茶の、上級品をさすこととなる。
言うまでもないのは、川柳には掛け言葉がつきものだということだ。
「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜もねむれず」
と教科書にも載った珠玉の川柳は、嘉永六年の黒船(軍艦)四隻をさすと知りつつも、残念なことに「上喜撰」がそもそもお茶であることを知らねば、面白さの味わいが半減すること間違いなしなのである。
これが、太平の眠りを覚ました、黒船という蒸気船の正体なのである。
江戸の庶民は、近代科学で装備された、蒸気動力の威圧的〈力〉を黒船に象徴したのだった。
転じて、黒船を背景とした不平等条約の屈辱が〝文明開化〟を必然とする。
さてこそ。話題も転じて。
場合によっては、かくのごとくに、さんざんっぱら、説明しておいて、最後に「~ということは、言うまでもない」などと、のたもうてあるが、それはどういう論理なのかとわが頭を疑うことが、しばしばある。
はっきりと「言うまでもない」ことなら、あえて言うまでもなかろうはずなのに、なぜにそこまでして、あえて詳細に言おうとするのか、と。
つまり、これは一般常識なので専門書ではしもじもへのこれ以上の説明は本来不要だという当面の態度を示したいだけの権威かぶれの〈力の誇示〉以外の解釈を思いつけないのだ。
ところが、調べてみると、それは〝説明不要〟なのではなく〝説明不能〟なのだという事態に、その上さらに、しばしば遭遇する。
インターネットに情報が氾濫して、たいていのことが調べられるようになっても、そういう「言うまでもない」ことには、こと欠かないのである。――まあまあまあ。さればとて。
いつぞは、自分がそういう説明回避のための言い回しをしないとも、限らないのだし。
が、そういう、「言うまでもなく」の結びが〝推測文〟という事態になると、あとは、さすがにもはや言うまでもないところでもあるけれども、ここは少しばかり強調しておきたい。
「……ことは、言うまでもなかろう」という論旨ではなく、
「言うまでもなく、……、であろう」という(断定するにはいささか自信がないがそうであることは言うまでもないという)了簡なのである。
ところがこれもまた、我が身がさっそくにもやりかねない文章構成でもあるので、始末が悪いところだ。無論、一連の文脈において不自然ではない「言うまでもない」語り口があることも、また、言うまでもなく、認められよう。
などとは、普通に書いてしまうのだ。
――ここで「無論」というのは「論ずるまでもなく」と書かれていることがある。どうやらこれは「論文」に限らず〝論じている最中〟に、途中の説明抜きでも成立するので結論だけが書かれる場合に、用いられる。
あるいはこのあたりが、便利な「言うまでもなく」の起原かも知れない。
さてさて最後に。同じ意味の「勿論(もちろん)」の「勿(なかれ)」は「動作の禁止に用いる語」だそうな。
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