2017年1月20日金曜日

シャルルは生き延びラボアジエは処刑された

 「質量保存の法則」を導き出したラボアジエが、燃焼の理論を確立したのは 1775 年のことだという。
 1789 年にフランス革命が起こり、1794 年、ラボアジエはギロチンにかけられ死んだ。
 処刑の理由は、彼は革命以前ずっと〝徴税請負人〟として生計を立てていたからだ。
 その死を、ラグランジュは、こう語った。
彼の頭はほんの一瞬で切り落とされたが、あれほどの頭脳を新たに生み出すには 100 年あってもたりないだろうと。
 ラグランジュというのは、ラプラスのことで次のような逸話を残した人物だ。

ラプラースは、その著書をナポレオンに献呈した。ナポレオンは、彼をなぶりものにしようとしたのか、明らかな見落としを指摘した。「あなたは宇宙体系について、このように巨大な本を書かれたが、宇宙の創造者については一言もふれておられない」。ラプラースはいい返した。「閣下、私にはそのような仮説は必要ございませんでした」。ナポレオンがこれと同じことをラグランジュにくり返したとき、ラグランジュは答えた。「はい、でもそれは立派な仮説でございます。そしてとてもたくさんのことが説明されております」。
E・T・ベル/著『数学をつくった人びと Ⅰ』 (p.352)

 そのフランスでは、革命の起きる前に、水素気球の公開実験が行われていた。

1766 年にイギリス人キャベンディッシュによって発表された「可燃性空気」は、
1783 年、ラボアジエに、「水素」と命名されている。

 1783 年というのは、1776 7 4 日に〝独立宣言〟をしたアメリカが、イギリスと「パリ条約」を締結した年だ。
 イギリスがアメリカの独立を承認したその条約は、パリで結ばれたから、「パリ条約」という。

 1783 8 月、シャルルの水素気球の実験が大騒ぎの中で行なわれた。
 その見物人の中には、アメリカの独立宣言の起草者のひとりにして当時駐仏大使だった、ベンジャミン・フランクリンがいた。タコでカミナリを捕えたあのフランクリンである。

 その後のフランス革命で、1792 8 月、民衆がチュイルリー王宮を襲撃して王を投獄した。
 まさにその時、シャルルはその王宮内に泊まっていた。
 彼を発見した暴徒に殺されそうになり、シャルルは訴えた。
 ――あの輝かしい気球実験のことを。
 大衆の顔に戻った暴徒は、シャルルを殺すのをやめた。

 シャルルは、「シャルルの法則」の発見者とされるが、論文では、そのことを発表していない。その法則とは「一定圧力のもとでは、気体の体積は絶対温度に比例する」という内容だ。
 その理屈でいくと、絶対零度で、気体の体積はゼロになる。つまり、もともとは絶対零度がここから導き出された。
 その法則は、「ボイルの法則」と合わせて、「ボイル・シャルルの法則」といわれる。
 実は「ボイル・シャルルの法則」は現実の気体ではなしに、実在しない〝理想気体〟とだけ一致することがすでに確認されている。

 「シャルルの法則」を世に出したのは、ゲイ・リュサックなので、シャルルの法則は、ときに「ゲイ・リュサックの法則」ともよばれる。
 リュサックはまた「気体反応の法則」を発表した。それは〈アボガドロ数〉にまでつながっている。
 〈アボガドロ数〉とは、モル単位で数える原子や分子の数のことだ。
 正しい者が、すべてにおいて正しいわけではないし、間違った者でも、あとで正しくなることさえあるだろう。――「アボガドロの法則」は、約半世紀もの間、正統派に顧みられることのない、ただの仮説だったという。


質量保存の法則 及び シャルルの法則
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/Lavoisier.html

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