2017年1月10日火曜日

ゼロ・サム・ゲーム

ものごころついたときにはもう、
ぼくらはゼロ・サム・ゲームの、
ただなかにほうりこまれていた。

おさない子は、食べ物を与えられたときに、
ふたつの行動から選択するという。
 ひとつは、食べ物を口に入れる。
 もうひとつは、食べ物をほかの子供に与える。
これは、自分と世界の区別がついていないからだ。
食べ物をぽいとほうり投げるというまた別の選択肢もあるけれど、
資源を粗末にしないという観点からは、おおまかにこの二種となる。

おとなになって、お金や物を与えられたときに、
ひとはそれと別の行動を発明することになる。
保存可能な形態にそれを変換して、貯蔵する、のだ。
所有物、という概念がそこに発生している。

ゼロ・サム・ゲームというのは、宇宙船地球号の資源を巡る戦いだ。
「ゼロ・サム」の「サム」というのは、たし算とか総和を意味する。
だから「ゼロ・サム」は「ゼロ和」と日本語で書かれることもある。
「ゼロ和」というのは、ゼロのたし算ではない。
全部たすと、「ゼロ」になることを意味する。
ゲーム終了時に、プレイヤーの得点を合計すると、ゼロになっている。
参加者の総得点は、いつでもゼロになる。それが、ゼロ・サム・ゲームなのだ。

参加者のすべてに席は与えられている。
けれども、余分な席はない。同じ席もない。
ゲームを 1 段階クリアするごとに、戦績が評価されて席替えが行なわれる。
その都度、だれもが、よりよい席を狙って、そこに座ろうとする。
参加者の目的は、ゲームをクリアしていくことじゃなくなる。
プレイヤー相互の、戦略ゲームが、ゼロ・サム・ゲームの正体だ。

ぼくらは、ものごころついたときには、ゲームに参加させられていた。
ゲームに参加するさいには、その能力にかかわらず、ゼロ・ポイントが与えられるという。
その後に獲得した得点をほかのだれかに渡すことはできない。

仲間と協力して、大きな成果を上げても、それはだれかのポイントを奪うことと同じだ。
全員と協力したってそもそも序列はつけられる。
 これは、ぼくがのぞんだ、ゲームのかたちだろうか?
参加を希望する者たちだけで、ゲームは行なわれるべきだろう……。
そうしてぼくは、戦略を放棄して、席替えの都度、残っている席に座ることにした。
あるとき、空いた席を探して、そこに座ろうとして、席がなくなっていることに気づく。
 リタイア、1 名。とアナウンスされ――
ぼくのマイナス・ポイントが、ほかの全員に配分されて、ブーイングが起きる。
ゲームに参加しないのは、ただの裏切り者でしかない。

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