当時の英国王立協会の会合は、ロバート・ボイルの自宅兼実験室で行なわれたようです。
その場所で、ロバート・フックは、ロバート・ボイルの助手として、実験を繰り返していました。
ちなみに、それぞれ、
ロバート・ボイル( Robert Boyle 1627 年 ~ 1691 年)
ロバート・フック( Robert Hooke 1635 年 ~ 1703 年)
でありますので、
「ボイルの法則」は「ゆでる (boil) 卵の法則」ではなく、
「フックの法則」は「かぎ針 (hook) の法則」でもなく、
いずれも、人名に由来しています。
どちらの法則も、圧縮や弾性の力学に関わっています。
前回にも書いたように、空気の体積と圧力とが反比例するというのが「ボイルの法則」です。
さても。圧力釜が、自然と連想させられる名称では、ありませんか。
そしてその成果を出すために精巧な〝真空ポンプ〟などの実験装置を作成し、助手として実験をしたのが、フックです。
こちらは、「のびは力に比例する」というのが、「フックの法則」です。
まったくもって、バネ秤(ばねばかり)にぶら下がっている〝フック〟を連想させるしあがりとなっています。
フックはまた、顕微鏡を使った研究でも「細胞」という名を世に残しています。
つまりそれまでは誰も、細胞など見たことも聞いたこともなかったわけです。
そのあたりの研究では、顕微鏡を使って最初に微生物を観察したのは、アントニー・ファン・レーウェンフックとされています。
ところで、以前に調べた資料を参照すれば、自然哲学者スピノザは腕のいいレンズ職人としての評判を得ていたことがうかがえます。
レーウェンフック(一六三二-一七二三)がデルフトで一六七〇年頃からかなり高倍率の顕微鏡を自作したことが、次の大きなエポックになる。レーウェンフックは、一六七三年にロンドンのロイヤル・ソサエティにその成果を書簡のかたちで伝えている。その報告が認められ、彼は一六八〇年にはロイヤル・ソサエティのメンバーになっている。このことは、ホイヘンスがフランスのアカデミーのメンバーになったこととともに、オランダ科学史のハイライトでもある。
〔塚原東吾「 17~18 世紀オランダ科学における望遠鏡・顕微鏡・科学機器」 2.一七世紀、望遠鏡から顕微鏡へ〕
しかし、このころはまだ器具製作を専門とする業者がいたわけではない。つまり、科学器具の製作自体を専門とする業者(プロフェッション)はまだ成り立っていなかった。レンズ(顕微鏡)を売って生計を立てていたのは、ハーグ近郊フォールブルグに住んでいた哲学者スピノザと、ライデンのミュッセンブルグ一家の工房くらいであり、きわめて少数であったと考えてもよいだろう。
〔塚原東吾(同上)/『科学機器の歴史:望遠鏡と顕微鏡』所収 (p.117) 〕
ガリレオの望遠鏡にしろ、フックの顕微鏡にせよ、研究のためには精緻なレンズが求められます。
スピノザは、意外なところで、近代的精神への貢献をしていたわけです。
時代は、蒸気機関の発明を待たずして、優秀な技術者の存在なくしては成立しなくなりはじめていました。
ボイルの法則 及び フックの法則
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/Boyle.html
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