2017年8月1日火曜日

猫も杓子も進化する

次の資料の説明に、ぽんと膝を打ち、タイトルに使わせていただきました。
出典の紹介および解き明かしのため文脈ともに引用させていただきますと。

 したがって、進化現象をアルゴリズムのプロセスとして見るダーウィニズムは、生物学と本来かかわりのないものをも研究対象にすることができる。ドーキンスが「ミーム」(文化の伝達や複製の基本単位)の概念を用いて人間文化を研究することを提案したのは、単なるアナロジーや思いつきによってではない (Dawkins 1976=2006) 。それは生物だけでなく非生物も、物体だけでなく言葉やアイデアといった非物体的なものも扱うことができる。適切に運用されるならば、非生物を対象とした進化論も、ダーウィニズムの比喩や応用ではなく、ダーウィニズムそのものでありうるだろう。このようにダーウィニズムは、アルゴリズムの基質中立性を通してデザインの複雑性を説明する、生物学の枠組にとらわれない汎用的な理論となる可能性を秘めている。だから猫も杓子も進化すると言ったところで、それはダーウィニズムにとっては比喩ではない。実際に進化するものとして猫も杓子も扱うことができるのである。
〔吉川浩満『理不尽な進化』2014年 朝日出版社 (pp.249-250)

著者の吉川浩満氏は、1972 年、鳥取県米子市生まれということで、
鳥取県立図書館では「郷土人物」コーナーに配架されていました。
『理不尽な進化』という書名は、地球でこれまでに誕生した生物種の 99.9 % が、
理不尽ともいえる運に左右されて絶滅したという事実に由来するようです。

そういう不運の代表格として、巨大隕石の落下による環境の激変があります。
落ちてきたとき、まさに落下地点で隕石の直撃を受けた、などは最たるものですが、
それだけでなく、たまたまその時代に、栄華を誇っていたという理由で、
最適者は、環境の急変に対応しきれず、たちまち絶滅候補の筆頭に押し上げられてしまう、
といったことも考えられるようです。
そういった、どうにもならない因果が、螺旋のように巡っていくわけです。

――
 そのほかに語られている内容としてたとえば、専門家の「進化論」と一般的な理解がズレていて、一般的に用いられている「進化」はたいてい「進歩・発展」の意味なので、これはラマルクやスペンサーの論じたところなのだということが、解き明かされます。
 ダーウィンの「進化論」は、無目的な偶然の変化を最大の特徴としており、その論ずるところは、結果としてそうなった、という、事実の連鎖です。
 したがって、なんでもかんでも「進化」しなければ生き残れないようなこの時代に、努力目標としてもっぱら吹聴されている進化論は、絶滅したはずの「社会進化論」だったというわけです。

 それでも、ダーウィン的「進化論」にもとづいて「猫も杓子も進化する」ことは、論理的には可能という話です。
 ダーウィンの自然淘汰は、結果的に生き残ったという以外にいいようのない、「適者生存」の成句で表現されます。
 この言葉を正当に理解すれば、〝生き残るために進化する〟という表現が、勝者の論理でしかないことは見当がつきます。
 歴史的に、勝者は、1000 分の 1 の確率でしか存在していないことを考えると、
「努力が報われた」当事者も、その確率でしか想定できません。
 現実の歴史は、環境に対応した結果、たまたま生き残った、ということになるようです。
 それでも、変化できなければ、置いてけぼりになる確率は、増えるのでしょう。
 山で遭難した際にも、やたらと動き回らないほうがいい場合だってあるけれども、行動を起こした結果、助かるかもしれません。
 努力がたまたま報われることもあるのです。
 座して死をまつか、目の前の問題くらいは片づけようと頑張ってみるか。
 杓子も、現在の姿になるまでに、幾多の失われた形状があったことが偲ばれます。

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