ざっくりとした標語的なものだったら、特に大きな問題もない。
ところが個別の親子関係においても、それが主張的に語られる。
環境次第で、子供はなんにでもなれる、と。
たとえば近ごろの、高学歴信仰を基盤としたかのような教育方法についてのテレビ番組などの展開では、個人の特性に拠らず教育次第で人間の能力はいかようにも開花すると、本気で思い込んでいるかのごとくに、感じられてしまう。
どうやらそれらの教育論の中身は、中心が子供ではなく、親の側の方法論に焦点があっているようだ。
傾向として、そういうものが多いような気がする。
傾向として、子供の特性はその個別性にはなく、可塑性に求められる。
可塑性(かそせい)とは、変形のしやすさ、というような意味だ。
西欧でその理論は、たとえば〈ブランク・スレート〉として語られる。
極論としてそれは、親や教師は神のごとくに、子供をデザインできるという。
粘土細工の作業結果でも、同じにはならない。素材と技術の両面が問われるだろう。
ところが人間形成は、それよりも容易に、同じ結果を出せるかのようだ。
―― 家庭の教育の現実は、親とその子という構成で進行するだろう。
仮に親子の組み合わせのどちらかが、別人になったところで、教育者の側の技術さえしっかりしていれば、将来的な結果は変わらないのだろうか。理論的にはそれは、両方ともが別人の組み合わせでも、構成要素などいっこうに気にしなくても、同じ結果を保証するというのだろうか?
こういう疑念を抱いていたところに、グッとタイミングもよろしく。
つぎのような書籍に巡りあいました。
西欧では、社会ダーウィニズム(社会進化論)と優生思想を悪用したナチズムの悪夢が 21 世紀にいたってなお、学問の世界を含めて社会全体に影響を色濃くとどめていてトラウマのようになっているため、それとは反対の側が思想的に正しいような反動が生じているらしいのです。それで、遺伝子とか個人の特性について語ることが、あまり好まれないらしいのです。
「生まれと育ちについての本なんて、もうたくさんだよ。心が空白の石版[ブランク・スレート]だなんて、そんなことを信じている人なんか、まだ本当にいるのか? そうじゃないのは、子どもが二人以上いたり、異性愛の経験があったりすれば、いやでもわかるんじゃないのか? それとも、人間の子どもは言葉を憶えるけれどペットは憶えないとか、人には生まれつきの才能や気質があるとか、そういうことを知っていれば。みんなもう、遺伝か環境かなんて単純な二項対立はとっくに卒業していて、行動はすべて生まれと育ちの相互作用から生じると認識しているんじゃないのか?」
この本のプランを説明したとき、私は同業の仲間たちからこうしたたぐいの反応を受けた。ちょっと聞くと、もっともな反応に聞こえると思う。生まれ (nature) か育ち (nurture) かの問題は、本当にもう終わった問題なのかもしれない。
論理学者は、たった一つの矛盾が一連の言説をそこない、そこからどんどん嘘が広がってしまう場合があることを私たちに教えてくれる。人間の本性というものは存在しないとする教義は、人間の本性は存在するという科学的な証拠や一般常識が示す根拠にさからって、まさにそのような悪影響をおよぼしている。
まず、心はブランク・スレートであるという教義は、人間についての研究をゆがめ、ひいてはそうした研究をよりどころにして下される判断を、公私を問わずゆがめてきた。たとえば育児に関する方針の多くは、親の行動と子どもの行動との相関関係を見る研究を手がかりにしている。愛情豊かな親の子は自信をもっている。威厳のある態度の親(いきすぎた自由放任ではなく、それほど懲罰的でもない親)の子は行儀がいい。話かけをする親の子どもは言語スキルが高いなど。そういう相関があるという研究結果をふまえて、いい子に育てるためには、親は愛情豊かに、威厳のある態度をもち、口数を多くすべきで、うまく育たなかったらそれは親の落ち度だという結論がだされる。しかしその結論は、子どもはブランク・スレートだという思い込みに依拠している。親は子どもに家庭環境だけではなく、遺伝子もあたえる。親と子の相関関係が示しているのは、親を愛情豊かで威厳のある、話好きのおとなにしているのと同じ遺伝子が、その子どもを自信のある、行儀のいい、話上手な子にしているというだけのことかもしれない。養子の子ども(養親から環境だけをあたえられ、遺伝子はあたえられていない子ども)を対象にして同じ研究が実施されるまでは、そのデータは、遺伝子がすべての差異をつくりだしている可能性とも両立するし、育児がすべての差異をつくりだしている可能性とも、その中間に位置するあらゆる可能性とも両立する。それなのに、ほぼすべての事例で研究者は、もっとも極端な立場 ――「育児がすべて」という立場 ―― しか考えにいれていない。
人間本性に関するタブーは、研究者に目隠しをしてその視野をせばめてきただけでなく、人間本性についてのあらゆる議論を撲滅[ぼくめつ]すべき異端の説に変えてしまった。生得的な人間の資質が存在することを示唆する所見の信憑[しんぴょう]性をそこなおうとやっきになるあまり、論理も礼儀もかなぐり捨ててしまった著述家もたくさんいる。「一部」と「すべて」、「おそらく」と「つねに」、「である」と「べき」との初歩的な区別さえ、さかんに無視されているが、それは人間本性を過激な教義に見せかけて、読者をそこから遠ざけるためである。
〔スティーブン・ピンカー 著 NHK ブックス『人間の本性を考える』[上] 山下篤子 訳 (p.7, pp.11-13) 〕
ここまで読んだところで、この観点からの説明が、日本の現状に通じるところがあると思ったのです。
―― そういうわけで本日この場に、ながながと引用紹介させていただきました。
原著は、2002 年の出版で、2004 年には、日本語版が全 3 冊で刊行されました。
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