1856 年にドイツのネアンデル渓谷の採掘場から掘り出された化石に由来する名の人類で、およそ 4 万年前に絶滅したとされます。
ホモ・サピエンスが神の創造した〝唯一の人類〟であることに、疑いが生じました。
1858 年 7 月、ダーウィンとウォレスが「自然選択による進化論」の共同発表者として認められ、翌 1859 年 11 月にはダーウィンが『種の起原』を刊行した時代背景があります。
1868 年に、フランスのクロマニョン洞窟で、また別の人骨が発見されることになります。
クロマニョン人と、名づけられました。
ヨーロッパでネアンデルタール人が絶滅に向かう時代に共存していた、ホモ・サピエンスとされています。最新の研究によれば、その共存の期間は 5000 年程度と見込まれているようです。
クロマニョン人の脳は、ネアンデルタール人よりも大きくて、現代人の脳と比較すれば 1 割程度は大きかったといいます。
かくしてネアンデルタール人が消息を絶った 4 万年前と比べると、人類の脳は縮んでいることがわかります。
2010 年 5 月に『サイエンス』誌に掲載された論文では、ネアンデルタール人の遺伝子の数パーセントが現代人と共有されていることが、発表されました。
クロマニョン人の文化や芸術が爆発した時代は、約 3 万 7000 年前といわれます。
そのころに、ネアンデルタール人は姿を消しました。が、クロマニョン人との関連性は、謎のままです。
ありふれた仮説としては、現生人類が勝ち残れたのは現生人類のほうが旧人類よりも協力することに長けていたからだとか、狩猟採集で得る資源の幅が広く、魚や鳥など、よりさまざまなものを食べていたからだとか、より大きく効率的な社会ネットワークを持っていたからだといったものがある。
〔ダニエル・E・リーバーマン著『人体六〇〇万年史』〔上〕塩原通緒訳 2015 年 早川書房刊 (p.224) 〕
さてさて。ホモ・サピエンスは、けっして最初から人類最強だったわけではありません。
ホモ・サピエンスとしての、第一次「出アフリカ」は、約 12 万年前とも想定されます。
その時にはわずかな痕跡を残しただけで失敗に終わったようです。
それが約 7 万年前のことのようです。
インドネシア・スマトラ島のトバ山が噴火したのは、おおよそ 7 万 4000 年前とされています。
当時は、急激に地球の寒冷化が進んで、まもなく長い冬がやってきました。
寒冷地仕様だったネアンデルタール人も、ヨーロッパを中心に居住していたのですが獲物を求めて南下し、現在のイスラエルのあたりで、ホモ・サピエンスと出くわします。
聖書の時代から現代に続く世界最大の紛争地帯に、トバ火山の爆発をきっかけとして、最初の衝突が記録されたようです。
温帯・亜熱帯仕様のホモ・サピエンスは、一度そこから撤退を余儀なくされました。
それから 3 万年。
ホモ・サピエンスは、ようやくその回廊を突破して、出アフリカを成功させます。
フランス南部では、1994 年、壁画が描かれた新たな洞窟が見つかった。ショーヴェ洞窟と呼ばれ、ラスコーやアルタミラと比べても遜色(そんしょく)のない、見事な動物たちの絵が描かれていた。時代は 3 万 7000 年前、ラスコーやアルタミラよりずっと前だ。年代が測定できるものとしては人類最古の絵画といわれている。
〔 NHK スペシャル取材班著『ヒューマン』2012 年 角川書店刊 (p.187) 〕
ホモ・サピエンスのうち 4 万 2000 年ほど前に、ヨーロッパに進出したその人類が、クロマニョン人です。
芸術や伝統文化の創意と継承には、ある程度の集団の大きさと、人口密度が必要になるでしょう。
失敗の多さが成功を導くともいわれます。
生き残るための社会性や共同作業も結束力を高めます。
また、トバ火山の噴火にともなう天変地異のあとには、70 キロも離れた場所との交易が遺品の記録に見えるといいます。
地球寒冷化の危機がホモ・サピエンスの飛躍と成功をもたらしたとも、推定されています。
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