副題に「なぜヒトは人間になれたのか」とあります。
21 世紀の初頭、〈ひとの心の起原〉を世界に取材した記録です。
いろいろな過去の事例のなかでもリアルタイムの映像も残っているという、イラクでのできごとが特に印象に残りました。
アメリカ軍の当事者だった大佐へのインタビューを中心に、再現された、紛争地帯での一場面です。
2010 年 4 月、アメリカ合衆国の国防総省の本部庁舎、ペンタゴンで、そのインタビューは行なわれました。
長くなるのですが、その箇所から、抜粋引用させていただきますれば。
取材相手は、クリストファー・ヒューズ大佐。米国陸軍長官付きの行政官だ。彼は、2003 年からのイラク戦争の際、第 101 空挺(くうてい)師団第 327 歩兵連隊の第 2 大隊の司令官として、現地での作戦指揮を執った。……。
ヒューズ大佐のイラクでの最初の任務は、バグダッドの飛行場に行くことだった。……。そこで、第 101 空挺師団には、ナジャフ市を確保する任務が与えられた。
ナジャフはイスラム教シーア派の聖地のひとつで、スンニ派とシーア派の主要な聖職者がいるアリー・モスクがある。ヒューズ大佐は、地元の有力者である聖職者と会おうと考えた。
…………
その話し合いのために市内に向かった先で異変は起こった。
群衆のある者が「彼らはモスクの神聖を汚しに行くのだ。聖職者を殺しに行くのだ」と叫び、それをきっかけとして騒ぎがはじまったのだ。石を投げたり、道に止めてある荷車を押し倒したりと混乱は加速した。
どのようにその場を収束させるのか、ヒューズ大佐は難しい判断を迫られた。
「軍隊では、群衆を静めたり、群衆の緊張をそぐためには、空に向けて銃を撃つと教えられています。ですから、最初、私は縦列の前に行き、武器の安全装置を外し、空に向かって撃つ準備をしていました。しかし、そのとき、少し冷静に考えました。もし威嚇したとしても、その後どう収束させるというのか。自分はアラブ語も話せない。誤解を解くすべもないのです」
ヒューズ大佐の頭のなかには、誰かが銃を撃てば、誰もが撃ちはじめるという恐怖があったという。そうなれば、血みどろの収拾のつかない状況になる恐れもあった。
…………
次の瞬間、ヒューズ大佐は部下たちに向かってこう叫んだ。
「笑え、笑うんだ」
一瞬にしてその場の空気は変わった。大勢の人たちが、笑顔を見せる兵士たちに微笑み返したのだ。混乱は収束し、事なきをえる。
なぜヒューズ大佐は、とっさにそんな判断をしたのだろうか。
「私は世界の 89 カ国に行っていますが、言語の壁、文化の壁、民族や宗教の壁があっても、笑顔の力が働かないのを見たことはありません。この世界で、笑顔は一つの意味しかありません。ですから暴力があり、不安があり、怒りがあり、混乱がある状況だったとしても、あなたがその人に笑顔を見せたら、少なくとも対話がはじまります。そこで、私は笑顔になりました。私が懸命に笑顔を見せると、群衆は私と一緒に笑顔になりました」
笑顔をつくるのに一番苦労したのは、大佐の部下たちだったという。
「彼らは戦ってきたからです。町にただ歩いて入ってきて、笑顔になれといわれたのではありません。この町に入るために戦わなければなりませんでした。人が殺されるのを人生で初めて見た兵士や、人の命を奪わなければならなかった兵士もいました。何が起こるか分からない状況だったので、彼らが笑顔になるのは数分かかりました」
このときの顚末(てんまつ)は、従軍していたニュースカメラマンによって撮影され、全米で放送されて大きな評判を呼んだ。
その映像はいま見ても、ある不思議さを感じさせる。
囂々(ごうごう)たる喧噪(けんそう)のなか、拳(こぶし)を振りあげて抗議の意思を示す男たち。表情を押し殺して銃を抱えて待機する兵士たち。一触即発を絵にしたような光景が一瞬のちには、交流を感じさせるムードに包まれるのだ。双方が笑顔を浮かべ、なかにはテレビカメラに手を振るイラク人の姿もあった。
〔 NHK スペシャル取材班/著『ヒューマン』 (pp.70-72) 〕
笑顔の魔法が、危機に陥った多くの人間の命を救った実話を紹介するために、長文の引用となりましたが、もとの書籍もぜひ手に取って全文を読んでいただきたく思います。
笑顔というのは、危険への緊張が緩和されたときに自然に起きる現象でもあるという、心理学的な説明を読んだ記憶があります。
安心感を先取りすることで、現実の安全を手に入れることもできるのだと、思い知らされました。
笑いはたいてい、気の緩みの表明なのですね。だからその表情は、すでにリラックスして、油断している状態だと、周囲にメッセージを送ることにもなります。
そういうわけで、油断した瞬間に策略にかかるというパターンは、笑顔の罠としてこれも人類の文化にあります。
でも、それでも。人畜無害な魔法で、人類の危機さえも乗り越えられたら、素敵でしょう。
感情のコントロールに関しては、悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだと、そう聞いたこともあります。
楽しいから笑うのではなくて、笑うから楽しくなるのだと、そういう話です。
人間の感情は、顔の筋肉にけっこう支配されていて、表情の豊かさが感情を脳に伝達指令しているようです。
感動して泣く場合は、どうなのでしょう。
いずれにしても、人間は、他人の表情を見ただけで、その心裡状態を推察することのできる能力を手に入れて、のみならず〝感情移入〟という得意技さえほしいままに駆使します。
かくして感情は伝播(でんぱ)するわけですが、伝播の媒体は光であったり音であったりするのです。
視ただけ、聴いただけで、心は動き、記号化された文字を読むことでもそれは発動します。
突然、スイッチが入るのです。
だから、あくびや笑顔は、伝染する……想像しただけでもあくびがでそうになる、わけです。
わかりあう心の黎明
http://theendoftakechan.web.fc2.com/ess/humanity.html
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