自分の夫や妻のパーソナリティを変えられると信じている人は、新婚夫婦を除けばだれもいないのに、だれも、「それでは、夫(あるいは妻)にどのように接するかは重要ではないと言うのですか?」とたずねはしない。夫と妻がたがいによくしあうのは(あるいは、そうすべきなのは)、相手のパーソナリティを望ましいかたちに作りかえるためではなく、満足できる深い関係を築くためである。夫あるいは妻のパーソナリティを改造することはできないと言われて、「彼(あるいは彼女)に注ぎ込んでいるこの愛情がすべて無意味だなんて、おそろしくてとても考えられません」と応答している人を思い浮かべてみよう。親と子についてもそうなのだ ―― ある人のもう一人に対する行動は、二人の関係の質に影響をおよぼす。
〔スティーブン・ピンカー 著 NHK ブックス『人間の本性を考える』[下] 山下篤子 訳 (p.227) 〕
―― 子どもに対する期待感を大人にそのまま適用したとき、おかしな話になるけれど。
自分の力で誰かを変えられるという信念の持ち主は、多いような気もします。
このひとをなんとかしたいという想いになるのは自然な感情でしょう。
でも誰かを思い通りにできるくらいなら、その能力はまず自分自身に発揮されてしかるべきとも思われます。
自分が思い通りにならない存在であることは、たいていの大人たちが身に沁みているはずなのです。
それとも他人をコントロールする能力は、自分には使えないという、まさに特殊な技能なのでしょうか。
さらに考えてみれば、なにごとも作用には、反作用というのがつきもので、相手に与えた影響力だってそれなりのものが自分に返ってくるはずなのです。
そういう影響力は、すでに失望感となって、自分自身に作用していると見受けられる場合も多々あります。
過剰な信念は、それなりの結果を伴わない場合に、破滅的な絶望をもたらすとも予想されるので、他への逃げ道も必要でしょう。
ところでいまさらながらですが前回の「能力の可塑性という信仰」というタイトルは少々間違えていました。
「能力の可塑性にまつわる信仰」のほうが曖昧でよかったと、思い至った次第です。
あんまり決めつけるのは危険なのですね。
能力の可塑性は、老若男女を問わずに、常に期待できて、かつ幼い子どものほうがその可塑性は高いと思われます。しかしながら、ベースとなる能力を無視して、後天的に与えられた技術的な効果だけですべて同じ結果をもたらすということにはならないでしょう。そういう極端な場合だけを考えていたことがタイトルに反映されてしまったわけです。
ダーウィン的「進化」もその本質は「変化」ということでした。
つくづく生きているということは変化するということで……。
変わりようのないひとには「なにをいっても無駄」ということになるわけで。
頑固な大人や年寄りには何を言っても変わらない、というのも偏見で。
それを暗黙の前提とせず、相互理解のきっかけをあきらめない信念も、必要になってきましょうか。
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