けれど水に垂らした油を、力の限りにシェイクしても、いずれ水とは分離する。
時間は、混沌へと、常に、一方向へ突き進むといわれているけれども。
―― そういうわけで。
当面のところ、世界はただひたすらに、一方的に「混沌としていく」というのは、例外のない話でなければならないはずでした。
それは、水面に投じられた石が作る波の広がりは、たとえ障壁によって逆方向へ向かっても、一致団結して、もとの中心部には戻っていかないことからも、経験的に知られています。
みなもにゆれる波紋の不可逆と一点への収束の可能性
うえに述べた景観を、いま一度繰り返すなら、池に落ちた蛙は波紋を拡げていくけれど、円形を描いた波が逆向きに集中した結果として一点に収束していくことは非常に困難である、ということです。
しかしながら、〈時の矢〉もしくは〈エントロピーの増大〉は、なにも地球上の古池に限って語られることでもありませんので、宇宙規模で、ひとつこれを考えてみましょう。
もしやよく例に出される、たとえ話でしょうか。アレンジして書くと。
陸地のない、一面が深い水に覆われた惑星を、ほぼ球体の形で想像する。
その惑星の水面に対して垂直に、巨大隕石並みの蛙を直撃させる。
蛙の落下で生じた波紋は、ただひたすらに、拡がっていくだろう。
そして最大円周を越えると。今度は、ちょうど反対側の一点へと波は収束していく。
そこから、勢い余った、不死身の蛙が飛び出してくるかも知れない。
―― 理解しやすいように、北極・南極・赤道を想定すれば、
北極に発した波動は、赤道を越えて進めばそのまま南極へと、一点に集中していくだろう。
この、たとえ話をさらに全宇宙規模で考えてみれば。―― さすれば。
宇宙は、球体の表面のように曲がっているらしいので、
こちらで拡がっていった〈エントロピー〉の増大する波は、
あちらで〈エントロピー〉を減少させていく可能性は、ゼロではない、と ――。
その論理的な飛躍を無視すれば蛙の跳躍力だけが残るのでしょうけど。しかし最後の跳躍は。
宇宙はとてつもない勢いで膨張しているらしいので、蛙が飛び込んだ波紋は、いつまでたっても、向こう側へは届かないかも知れません。
ボルツマンは、自身の確率論にもとづく解釈を人類の決定的理論だとは、思っていないようでした。
理論を決定的としないというその考え方の正当性は、歴史に明瞭にあかされています。
人類の科学技術の進歩がこれ以上には想像できなくても、いつだって、その先の未来はありました。
当面の説明が可能ならば、いまはそれでいいじゃないか、と。
その結果残された〝混沌〟を巡って、解釈の混乱は続いているようですが、しかしそこに決定論的〈ラプラスの魔〉が見え隠れしているようで、なりません。
制御可能なものを情報といって価値を見出し、もしそれですべてがわかった気になっても、きっと制御不可能な部分に「ふた」をして見えなくなっているだけでしょう。
理解不可能な、その手からはみ出てこぼれた〝混沌〟は、存在しなくなったわけではありませんから。
〈未知〉の途上 〈不可知〉の価値
http://theendoftakechan.web.fc2.com/sStage/entropy/unknown.html
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