〔参照:大村茂雄「情報とは何か」『情報と経済活動』所収 (p.47) 〕
データ=評価されていないメッセージ
情 報=データ+特定の状況における評価
知 識=データ+将来の一般的な使用の評価
〔アドリアン・M・マクドノウ著『情報の経済学と経営システム』(好学社、1966 年)長阪精三郎訳 (p.78) 〕
データというのは、つまり記録の提示で、それが一定の評価の後に、情報として認められるという見解のようです。
けれどデータ化されたインフォメーション(情報)が、
―― ノイズ(雑音)と区別されていく過程、
―― を、考えるならば、〈情報〉はデータの前提となるべきものとも認められましょう。
この場合は、データ化以前の情報がそこにすでにある、という見解なわけです。
いずれも、個人的な捉え方での意見に過ぎませんが……。
シャノンの追求した工学的な通信の理論では、情報に意味は求められていませんでした。
その情報理論では、受信した情報にはノイズが混ざり込んでいる前提がありました。
そういう、受信した信号を読み出す行為は、情報化ではなく、やはり与えられた情報のデータ化ではないでしょうか。
さらには。相互のコミュニケーションにおいて、〈情報〉とは、受け手側に〝価値〟をもたらすものとして考えれば。すると、そこにただあるだけの、相互伝達の皆無な〈情報〉は、それを〈情報〉と認める受け手すら想定し得ないことになります。
〝価値が評価されたデータ〟をようやく〈情報〉とみなす見解は最初に見たとおりです。
この場合には、データが〈情報〉を取り出す基盤となっています。
〈情報〉の定義は、立場によって、かなり異なるようです。
可能性は混沌に潜む
―― このように考えていくと、一般には、
やはり〈情報〉は、受け手にとって〝価値〟あるものと、いうことができるのではないか、と。
するとそれはまた、与えられた者に「制御可能」と認定される内容でなければならない、のであるし。
それ故、〈情報〉は「安心と秩序」に裏づけられて、そこに存在するのだ。と、みなされるなら。
制御不能な〈情報〉というような概念は、そもそもその意味が成立しないでしょう。
ところで、ランダムと均一は、対極にあるようです。
たとえば、0 と 1 で表現される二進数で、
「延々と均一に 0 が続く状態」に、多くの意味は求め難いけど、
「ランダムに 1 が混入する状態」は、何かしらの意味をもつ場合がある。
すなわち、何らかの違いがなければ、意味をもつ情報とはいえないわけで。
この場合には、はっきりと、行き当たりばったりのでたらめなランダムさが、均一を破っているのですけれども。
―― けれども。
熱力学や統計力学では、そういう果てしなき「散逸」の果ての〝混沌〟に「均一」を想定しているようです。
ようするに、データ化をみずから諦めたそれらの〈情報〉を、エントロピーといい、その状態を均一に〝無秩序〟や〝乱雑〟と称して切り捨てたわけです。
しかしながらそれらの状態は、それなりの細やかな視点で見れば、均一ではなく、多様な情報を秘めたデータの宝庫でもあったりするし、あるいは「新しい発見」とはそういう誰の眼も届かなかった、〝混沌〟のなかにあるようです。
そうして西洋では、そういう偶然の発見や出会いを「セレンディピティ」というのですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿