2021年3月3日水曜日

自鳴鐘:西欧の機械式時計

 記録によれば、中国の皇帝がキリスト教宣教師からの贈り物として、渡来の「時を告げる時計(自鳴鐘)」を手にしたのは、明の万暦 28 年 12 月(西暦 1601 年 1 月)で、これは 17 世紀の最初の年の 1 月となるのですけれども、日本への西欧時計の伝来は、それよりも半世紀早い 16 世紀の中頃で、フランシスコ・ザビエルによって、大内義隆に献上された 1551 年(天文 20 年)が最初とされています。


 その後、慶長 17 年 (1612) の『異国日記』に記された、徳川家康へのノビスパニヤ国主からの贈り物の目録に「斗景」とあり、この〈トケイ〉を新井白石が享保 4 年 (1719) の『東雅』で、「斗鶏」と記して紹介したわけです。

 現代まで用いられている「時計」の文字の登場については、その間の貞享 2 年 (1685) の日付がある『京羽二重』に「時計師」という職人が記録されています。

 つまり、西暦 1680 年代には、日本で、西欧式の時計の製作などが行われていたようなのですけれども、これは振子時計であることが、西鶴の作品によって推定されます。


 井原西鶴の「好色一代男」は天和 2 年 (1682) の処女作、「日本永代蔵」は貞享 5 年 (1688) の刊行です。


日本古典文学大系 47

『西鶴集 上』

〔麻生磯次・板坂元・堤精二/校注 1957年11月05日 岩波書店/発行〕

「好色一代男 卷五」

 (p.131)

[原文] 里へ帰[かへ]る御名殘[なごり]に、昔[むか]しを今に一ふしをうたへばきえ入[いる]斗[ばかり]、琴彈[ことひき]歌[うた]をよみ、茶[ちや]はしほらしくたてなし、花[はな]を生替[いけかえ]土圭[とけい]を仕懸[しかけ]なをし、

(頭注)

土圭を仕懸なをし 当時昼夜の時間の長短があったので毎日分銅を調節する必要があった。


日本古典文学大系 48

『西鶴集 下』

〔野間光辰・/校注 1960年08月05日 岩波書店/発行〕

「日本永代藏 卷五」

 (p.141)

[原文] 年[ねん]中工夫[くふう]にかゝり、昼夜[ちうや]の枕[まくら]にひゞく時計[とけい]の細工[さいく]仕掛置[しかけをき]しに、



 ◎ ようするに、オランダとの交易が行われていたその当時《不定時法》を用いていた日本では、早くも 1680 年代にはすでに、ある程度の振子時計が国内生産されていたらしいのです。

 《不定時法》というのは、日の出とともに朝が始まり、日の入りで夜の時間帯となる、つまり生活が太陽とともにある、自然のリズムを基調とするものです。

 そのため、季節によって昼夜の時間の長さが変化するので、時間間隔が一定しない、という問題が発生するわけです。また、昼と夜の長さが同じなのは、一年で春分と秋分の日だけなので、振子の長さを調整することで時計の時間間隔を変化させることのできる振子時計は、大変有効なものであったと思われます。


―― ところで、〝早くも 1680 年代には〟という表現を、ここで使ったのには次のような理由があります。


 ヨーロッパに、最初の機械式時計が登場したのは、西暦 1300 年頃といわれます。それから 100 年余が経過して 1400 年代の 15 世紀には、時計の小型化が進みますが、その正確さはいまひとつでした。

 ガリレオがイタリアで振子の等時性を発見したのは、伝説的記録によって、1583 年頃 19 才のときであるとされるようです。その後、1656 年から時計の研究をはじめたオランダ人ホイヘンスは、翌 1657 年には振子時計を設計しています。それからまもなく、完全な等時曲線は〈サイクロイド〉であることが、1659 年にホイヘンスによって発見されることになるのです。


 つまり、1657 年にホイヘンスによって設計された振子時計はリアルタイムで船舶に搭載されたでしょうし、そのようにして舶来しただけでなく、1680 年代の日本の市中に、恐らくは国産品として出回っていたことが日本の刊行物の記録によって理解できるわけです。

 のみならず、日本独自の工夫として、振子に調節のための尺度が描かれたものを、尺度計(尺時計)と称したことが、知られています。


―― その他の各種資料を参照したページを、以下のサイトで公開しています。


自鳴鐘:西欧の斗鶏 ―― とけい ――

http://theendoftakechan.web.fc2.com/eII/hitsuge/shizhong.html


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